2020年06月18日

捨象と置き換え

たとえば現実の何かを描こうと思ったとき、
それを捨象して、何かに置き換えると、
物語になることがある。


たとえば「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きているんだ!」
という名セリフはどこから来たのか、
逆算で考えてみる。

そもそも「踊る大捜査線」は、
刑事ものではない。
勿論、見た目は刑事ものだが、
実態は会社ものである。

日本の会社のよくある問題点や、
構造的な欠陥を批判することがテーマだ。
しかしそれだとリアル寄りになってしまう。
その会社はそういう問題はあるかもしれないが、
ウチの会社は微妙に違うから関係ないな、
と思われてしまったり、
リアルすぎて、そこの会社だけの問題でしょう?
と思われたりしてしまう。
リアリティはときに、「そのピンポイントでしか成立しない」という問題点を抱える。
だから、
会社でのよくある問題、
「バカでわからない役員たちの遅い会議を待つ、
現場のイライラ」を描きたいときは、
リアルな会社を描いても、
「誰もが共通に思うアレ」を描くには、
具体的すぎる。
具体が邪魔して、
「うちとそこは違うでしょ」という扱われ方をする。
 
「踊る大捜査線」が巧みなのは、
これを警察にもってきたところだ。
「バカでわからない役員たちの遅い会議を待つ、
現場のイライラ」を、
会社ではなく、警察で描いたのだ。

一回捨象して、置き換えたわけだ。

こうすると、
「警察機構内でのイライラ」がモチーフになるが、
「おや、こんなことはウチの会社でもよくあることだな」
という親近感がわくわけだ。
「どこの組織でも同じだなあ」
と思い、
「もし自分がこの警察で現場主任だとしたら、
まじ上層部むかつく」
と思ってくれる。
「自分との共通点を見つける」からだ。
これが感情移入である。

つまり、「踊る大捜査線」とは、
感情移入のために警察を舞台に選んだのだ。
警察はモチーフ、
テーマは会社である。

会社のことをいったん捨象(具体を捨てる)して、
それらを埋め込める適当なモチーフとして警察を選び、
警察のことに置き換えたのだ。

こうすると、
具体的な会社のことではなく、
「誰もが理解できる、会社の抽象的な特徴」
に還元されている。

もしモチーフが会社ならば、
「ごく普通のしょうもない会社」では魅力がない。
だからつい盛った会社にしてしまい、
「結局ウチとは関係ない会社」にしてしまうところだ。
それを、「毎日事件が起きていて、
死人が出たり、人情や人生や正義がある場所」
として警察を描くために、
モチーフが面白いのでつい見てしまうように作られている。

警察の内部のおじさんやデスクは、
実は会社の上司やデスクのメタファーになっているわけだ。
逆に、「警察の人だと思っていたが、
なんだかウチの会社の上司やデスクに似ているな」
と思い、親近感がわくようになっている。
「ここはウチの会社ではないが、なんだかウチの会社のようだ」
と思うようになっている。
それは偶然でなく、狙ってやったことなのだ。

整理しよう。
Aを描きたいときは、
一端そのAを捨象して、具体性を捨てる。
それをまったく違うのだが似ている構造を持つ、
魅力あるモチーフBで描く。

そうすると、
Bで描かれたことから、
Aを連想するようになる。
そうなると、
「ウチの組織や、自分の置かれた立場に似ている」
となり、感情移入が起こるということだ。

世の中のほとんどの人は警察ではない。
にもかかわらず、踊る大捜査線が面白かった理由は、
ほとんどの人が会社員だったからだ。
「これは警察のことを描いているが、
ほんとうは会社のことを描いている」
と、理解したからである。
(もしくは、頭で理解していなくても、
感情で理解している)

Aをそのままリアルで描かない理由は、
物語はドキュメントでないからである。
ドキュメントは、
そこの、そこでしか成立しない事情で終わってしまう可能性がある。
もっと広い場所でも共通に成立することを描くためには、
その具体を一端捨てる必要がある。

また、Bの世界のほうが、
Aよりも舞台的に魅力があれば、
それを採用したほうがよい。
たとえば、
踊る大捜査線はストリップ劇場を舞台にしても、
描きなおすことが出来るだろう。
(未検証)
ストリップ劇場でだって、
「まん〇が見えそうだという現場で起きている事件に対して、会議室でぐだぐだやっている場面があり、
現場担当が切れ、
『事件は会議室で起きてるんじゃない、
現場で起きてるんだ!』
という場面がある」
という話はつくれるからである。


似たことは、小田原評定をモチーフに置き換えても描けるだろう。
時代劇かと思って見始めたが、
なんだかウチの長い会議の会社みたいだぞ、
と思わせることは簡単に出来ると思う。

というか、時代劇とは、
モチーフこそ時代物だが、
描くことは現代の何かである。

僕が子供のころは、時代劇が週何本も放送していて、
大人はちょんまげが好きなんだなあ、
などと思っていたのだが、
実のところ大人たちは、
現代にも通ずる何か、たとえば会社の問題点や、
家族経営の問題点を見ていたのかもしれない。

僕はちょんまげよりもSFのほうが好きだったので、
ついそっちばかり見ていたが、
時代劇がそういうものだと分っていれば、
時代劇を楽しめたのになあ。
SFやファンタジーも、
同じことであるのは、
議論の必要はないだろう。

「ただのSFじゃないんだよ、
現代でも通用する、〇〇〇の問題点を批判しているんだ!」
「ただの剣と魔法じゃないんだよ、(以下同)」
「ただのちょんまげじゃないんだよ、(以下同)」
と、ジャンルを擁護する意見はあるが、
それは、やっと物語の入り口に来ただけのことなのだ。

逆に、それすらしていないストーリーってなんなんだ、
と僕に言わせればそうなる。


さて。
あなたは振られたので、
恋物語を書くことにした。
失恋感情Aを描くのに、
現代で、会社や大学を舞台にした、
リアリティ溢れるものを描くべきか?
そうじゃない。
全然違う、
雪山のスキーでの一日の恋とか、
宇宙人との出会いとか、
異なる世界線から来た人と、世界崩壊を止めるストーリー内で描くとか、
妖怪退治とか、
そういうことを考えないといけないのだ。

捨象できているか。
置き換えられているか。

あなたの会社や大学で起きた、
ちっぽけなことなんて、
誰も興味がない。
あなたは人生すべての大事なことだが、
他人にとってはそうではない。
そのずれが、メアリースーを呼ぶ。

だから、捨象して別の世界に置きかえた段階で、
あなたにとっても、
他人にとっても、
おなじ「まったく違う世界」になる。
だから、冷静と情熱の間で書けるようになる。

現実のしょうもないものを舞台にしないほうがよい。
それはしみったれた、分る人には分る程度の、
しょうもない日本映画になるだけだ。

Aの特徴を、
Bで描きなさい。
つまりたとえ話である。
その跳び方こそが、物語の価値だ。
posted by おおおかとしひこ at 00:07| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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