たとえば現実の何かを描こうと思ったとき、
それを捨象して、何かに置き換えると、
物語になることがある。
たとえば「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きているんだ!」
という名セリフはどこから来たのか、
逆算で考えてみる。
そもそも「踊る大捜査線」は、
刑事ものではない。
勿論、見た目は刑事ものだが、
実態は会社ものである。
日本の会社のよくある問題点や、
構造的な欠陥を批判することがテーマだ。
しかしそれだとリアル寄りになってしまう。
その会社はそういう問題はあるかもしれないが、
ウチの会社は微妙に違うから関係ないな、
と思われてしまったり、
リアルすぎて、そこの会社だけの問題でしょう?
と思われたりしてしまう。
リアリティはときに、「そのピンポイントでしか成立しない」という問題点を抱える。
だから、
会社でのよくある問題、
「バカでわからない役員たちの遅い会議を待つ、
現場のイライラ」を描きたいときは、
リアルな会社を描いても、
「誰もが共通に思うアレ」を描くには、
具体的すぎる。
具体が邪魔して、
「うちとそこは違うでしょ」という扱われ方をする。
「踊る大捜査線」が巧みなのは、
これを警察にもってきたところだ。
「バカでわからない役員たちの遅い会議を待つ、
現場のイライラ」を、
会社ではなく、警察で描いたのだ。
一回捨象して、置き換えたわけだ。
こうすると、
「警察機構内でのイライラ」がモチーフになるが、
「おや、こんなことはウチの会社でもよくあることだな」
という親近感がわくわけだ。
「どこの組織でも同じだなあ」
と思い、
「もし自分がこの警察で現場主任だとしたら、
まじ上層部むかつく」
と思ってくれる。
「自分との共通点を見つける」からだ。
これが感情移入である。
つまり、「踊る大捜査線」とは、
感情移入のために警察を舞台に選んだのだ。
警察はモチーフ、
テーマは会社である。
会社のことをいったん捨象(具体を捨てる)して、
それらを埋め込める適当なモチーフとして警察を選び、
警察のことに置き換えたのだ。
こうすると、
具体的な会社のことではなく、
「誰もが理解できる、会社の抽象的な特徴」
に還元されている。
もしモチーフが会社ならば、
「ごく普通のしょうもない会社」では魅力がない。
だからつい盛った会社にしてしまい、
「結局ウチとは関係ない会社」にしてしまうところだ。
それを、「毎日事件が起きていて、
死人が出たり、人情や人生や正義がある場所」
として警察を描くために、
モチーフが面白いのでつい見てしまうように作られている。
警察の内部のおじさんやデスクは、
実は会社の上司やデスクのメタファーになっているわけだ。
逆に、「警察の人だと思っていたが、
なんだかウチの会社の上司やデスクに似ているな」
と思い、親近感がわくようになっている。
「ここはウチの会社ではないが、なんだかウチの会社のようだ」
と思うようになっている。
それは偶然でなく、狙ってやったことなのだ。
整理しよう。
Aを描きたいときは、
一端そのAを捨象して、具体性を捨てる。
それをまったく違うのだが似ている構造を持つ、
魅力あるモチーフBで描く。
そうすると、
Bで描かれたことから、
Aを連想するようになる。
そうなると、
「ウチの組織や、自分の置かれた立場に似ている」
となり、感情移入が起こるということだ。
世の中のほとんどの人は警察ではない。
にもかかわらず、踊る大捜査線が面白かった理由は、
ほとんどの人が会社員だったからだ。
「これは警察のことを描いているが、
ほんとうは会社のことを描いている」
と、理解したからである。
(もしくは、頭で理解していなくても、
感情で理解している)
Aをそのままリアルで描かない理由は、
物語はドキュメントでないからである。
ドキュメントは、
そこの、そこでしか成立しない事情で終わってしまう可能性がある。
もっと広い場所でも共通に成立することを描くためには、
その具体を一端捨てる必要がある。
また、Bの世界のほうが、
Aよりも舞台的に魅力があれば、
それを採用したほうがよい。
たとえば、
踊る大捜査線はストリップ劇場を舞台にしても、
描きなおすことが出来るだろう。
(未検証)
ストリップ劇場でだって、
「まん〇が見えそうだという現場で起きている事件に対して、会議室でぐだぐだやっている場面があり、
現場担当が切れ、
『事件は会議室で起きてるんじゃない、
現場で起きてるんだ!』
という場面がある」
という話はつくれるからである。
似たことは、小田原評定をモチーフに置き換えても描けるだろう。
時代劇かと思って見始めたが、
なんだかウチの長い会議の会社みたいだぞ、
と思わせることは簡単に出来ると思う。
というか、時代劇とは、
モチーフこそ時代物だが、
描くことは現代の何かである。
僕が子供のころは、時代劇が週何本も放送していて、
大人はちょんまげが好きなんだなあ、
などと思っていたのだが、
実のところ大人たちは、
現代にも通ずる何か、たとえば会社の問題点や、
家族経営の問題点を見ていたのかもしれない。
僕はちょんまげよりもSFのほうが好きだったので、
ついそっちばかり見ていたが、
時代劇がそういうものだと分っていれば、
時代劇を楽しめたのになあ。
SFやファンタジーも、
同じことであるのは、
議論の必要はないだろう。
「ただのSFじゃないんだよ、
現代でも通用する、〇〇〇の問題点を批判しているんだ!」
「ただの剣と魔法じゃないんだよ、(以下同)」
「ただのちょんまげじゃないんだよ、(以下同)」
と、ジャンルを擁護する意見はあるが、
それは、やっと物語の入り口に来ただけのことなのだ。
逆に、それすらしていないストーリーってなんなんだ、
と僕に言わせればそうなる。
さて。
あなたは振られたので、
恋物語を書くことにした。
失恋感情Aを描くのに、
現代で、会社や大学を舞台にした、
リアリティ溢れるものを描くべきか?
そうじゃない。
全然違う、
雪山のスキーでの一日の恋とか、
宇宙人との出会いとか、
異なる世界線から来た人と、世界崩壊を止めるストーリー内で描くとか、
妖怪退治とか、
そういうことを考えないといけないのだ。
捨象できているか。
置き換えられているか。
あなたの会社や大学で起きた、
ちっぽけなことなんて、
誰も興味がない。
あなたは人生すべての大事なことだが、
他人にとってはそうではない。
そのずれが、メアリースーを呼ぶ。
だから、捨象して別の世界に置きかえた段階で、
あなたにとっても、
他人にとっても、
おなじ「まったく違う世界」になる。
だから、冷静と情熱の間で書けるようになる。
現実のしょうもないものを舞台にしないほうがよい。
それはしみったれた、分る人には分る程度の、
しょうもない日本映画になるだけだ。
Aの特徴を、
Bで描きなさい。
つまりたとえ話である。
その跳び方こそが、物語の価値だ。
2020年06月18日
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