2020年06月19日

捨象と置き換え2

さらに議論を続けよう。


たとえば、
「Twitterで体験したクソリプの話」
を書こうとしたとしよう。

これは、Twitter経験者にはものすごく分かる話かも知れないが、
Twitterをやらない人にとっては、
勘所のつかめない話になるかも知れない。

ああ、あれのあれね、
なんて別のもので喩えられていれば分かるかも知れないが、
だとするとTwitterをモチーフにする必要はないかもしれないわけだ。

じゃあ、
Twitterをやらない人、
たとえばおっちゃんおばちゃんでも、
分かる何かとは何か。

「Twitterで体験したクソリプ」の、
抽象度をあげればいいのだ。

たとえば、
「悪口を言われて傷ついた話」
「大勢の訳わからない人に囲まれて怖かった話」
にすれば良い。
(何を描くかにもよるが)

とすると、
これを描くには、
何もTwitterを用いて描く必要はなくなる。


渋谷のスクランブル交差点で、
すれ違いざま知らない人に耳元で悪口を言われたホラーにするとか、
近所の人全員が新興宗教に入り、
囲まれて詰め寄られた話にすればいいのだ。

抽象度を上げることによって、
別のモチーフへ移せるわけだ。

こうすると、Twitter経験ありなしで、
話がわかるかわからないかを、帳消しにできる。

なぜなら、
「悪口を言われて傷ついた」ことや、
「大勢の訳わからない人に囲まれて怖かった」ことは、
誰もが経験したことがあるか、
自分の経験に照らし合わせて、
状況をリアルに思い描けるからだ。


このように、
あるモチーフでないと描けないことから、
抽象度を上げると、
別のモチーフに移し替えても表現することが出来るわけだ。

そしてその別のモチーフを、
既知のものでなく、
新規のものを持って来れば、
基本的にはいっちょ上がりなのである。

誰もが知らないものだけど、
説明すればわかるものがベストだ。

なぜなら、観客全員が同時スタートになるからだ。


この、どんな観客でもスタートラインを同じにすることこそ、
物語作家の腕の見せ所なのだ。


たとえば、
「ハスラー」(1のほうね)で、
オープニングにある、
観客全員のスタートラインを揃える説明とはなにか?

ナインボールのルール説明ではないことに注意されたい。
ビリヤードのルールを知ってようが知ってまいがどうでもよく、
この映画を見る上でひとつだけ知っておくべきことは、
「負けまくって悔しいフリをして、
最後の大勝負で掛け金を釣り上げ、
そこで一発勝ちをして大金をせしめる詐欺の方法」
だけだ、
という整理の仕方がこの映画のハイライトだ。


ビリヤードやナインボールは、Twitterと同じで、
経験者しかわからない。

しかし抽象度を上げ、
誰にでもわかるものに噛み砕けば、
それをまったく別の世界に移植できるわけだ。

うまくやれば、ビリヤードだけではなく、
「宇宙人とネットで繋いだ新ゲーム」
でも描けるだろうね。

ビリヤードやゲームはガワで、
「死んだフリ詐欺」こそが、
映画の描く根本的なモチーフになっているわけだ。


「よし、Twitterであった○○○を書こう」
なんて考えてないか?
「その○○○の抽象度を上げるとどういうことになるか?」
「それはTwitterではない、まったく別の世界で同じことを書けるのでは?」
と、まず最初に考えられるかどうかが、
視野の狭いストーリーになるかどうかの、
分岐点になるはずだ。


そしてもう気付いているとは思うが、
そのように作られているからこそ、
誰にでも感情移入ができるのである。
posted by おおおかとしひこ at 00:21| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。