さらに議論を続けよう。
たとえば、
「Twitterで体験したクソリプの話」
を書こうとしたとしよう。
これは、Twitter経験者にはものすごく分かる話かも知れないが、
Twitterをやらない人にとっては、
勘所のつかめない話になるかも知れない。
ああ、あれのあれね、
なんて別のもので喩えられていれば分かるかも知れないが、
だとするとTwitterをモチーフにする必要はないかもしれないわけだ。
じゃあ、
Twitterをやらない人、
たとえばおっちゃんおばちゃんでも、
分かる何かとは何か。
「Twitterで体験したクソリプ」の、
抽象度をあげればいいのだ。
たとえば、
「悪口を言われて傷ついた話」
「大勢の訳わからない人に囲まれて怖かった話」
にすれば良い。
(何を描くかにもよるが)
とすると、
これを描くには、
何もTwitterを用いて描く必要はなくなる。
渋谷のスクランブル交差点で、
すれ違いざま知らない人に耳元で悪口を言われたホラーにするとか、
近所の人全員が新興宗教に入り、
囲まれて詰め寄られた話にすればいいのだ。
抽象度を上げることによって、
別のモチーフへ移せるわけだ。
こうすると、Twitter経験ありなしで、
話がわかるかわからないかを、帳消しにできる。
なぜなら、
「悪口を言われて傷ついた」ことや、
「大勢の訳わからない人に囲まれて怖かった」ことは、
誰もが経験したことがあるか、
自分の経験に照らし合わせて、
状況をリアルに思い描けるからだ。
このように、
あるモチーフでないと描けないことから、
抽象度を上げると、
別のモチーフに移し替えても表現することが出来るわけだ。
そしてその別のモチーフを、
既知のものでなく、
新規のものを持って来れば、
基本的にはいっちょ上がりなのである。
誰もが知らないものだけど、
説明すればわかるものがベストだ。
なぜなら、観客全員が同時スタートになるからだ。
この、どんな観客でもスタートラインを同じにすることこそ、
物語作家の腕の見せ所なのだ。
たとえば、
「ハスラー」(1のほうね)で、
オープニングにある、
観客全員のスタートラインを揃える説明とはなにか?
ナインボールのルール説明ではないことに注意されたい。
ビリヤードのルールを知ってようが知ってまいがどうでもよく、
この映画を見る上でひとつだけ知っておくべきことは、
「負けまくって悔しいフリをして、
最後の大勝負で掛け金を釣り上げ、
そこで一発勝ちをして大金をせしめる詐欺の方法」
だけだ、
という整理の仕方がこの映画のハイライトだ。
ビリヤードやナインボールは、Twitterと同じで、
経験者しかわからない。
しかし抽象度を上げ、
誰にでもわかるものに噛み砕けば、
それをまったく別の世界に移植できるわけだ。
うまくやれば、ビリヤードだけではなく、
「宇宙人とネットで繋いだ新ゲーム」
でも描けるだろうね。
ビリヤードやゲームはガワで、
「死んだフリ詐欺」こそが、
映画の描く根本的なモチーフになっているわけだ。
「よし、Twitterであった○○○を書こう」
なんて考えてないか?
「その○○○の抽象度を上げるとどういうことになるか?」
「それはTwitterではない、まったく別の世界で同じことを書けるのでは?」
と、まず最初に考えられるかどうかが、
視野の狭いストーリーになるかどうかの、
分岐点になるはずだ。
そしてもう気付いているとは思うが、
そのように作られているからこそ、
誰にでも感情移入ができるのである。
2020年06月19日
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