2020年06月20日

悪役がいないと話がまとまらないか?

ストーリーにはわかりやすい悪役が必要だ。
その悪役をやっつけて、
主人公の価値を示すことがテーマである。

疑問としてあるのは、
「必ず悪役が必要か?」ということだ。


何故なら、人間社会では、
物語のような、
絵に描いた正義と悪の対決になることはないからである。


正義と正義の対決である、
などと揶揄されることがある。

「自分の都合の正当化vs自分の都合の正当化」
ということだ。

これが、個人一人のものでなく、
「組織の都合の正当化」になることは、
会社員やってれば身に染みる経験であるかもしれない。
(組織の正義に個人の正義が潰されるのは、
とてもよくあることだ)

正義とは正当化の理屈でしかなく、
屁理屈はどこにでもつけられる。


客観的正義というのがあるかは誰にもわからない。

「誰から見ても悪」は、
洗脳された集団から見て、かもしれない。

渡部の不倫は悪か?
一夫多妻制度ならむしろ褒められたことだ。

では一夫一妻制度は正義だろうか?
正義や正当化は相対的にすぎない。

大虐殺は悪だが、戦争中は正義だ。
我々は正義のための戦いに高揚し、
軍歌や制服や兵器の行使に歓びを見出す本能がある。


で。

僕は、必ずしも悪役が必要だとは思わない。

ただ、上のようなカオスをきちんと描けることが前提で、
である。

相対的な視点をきちんと守り、
個々の事情と相手の事情を等しく扱える技量があれば、
わかりやすい悪役に頼る必要はなく、
各自が複雑な社会で、
複雑な結論を出す様を描けば良い。

ただしそれよりも、
分かりやすい悪役がいたほうが、
話が強くなるんだよね。

ダースベイダーがいたからスターウォーズは成立した。
力石がいたから矢吹丈は成立した。

悪役は、複雑な社会にヤジロベエの軸を通す。
n次元空間を、一次元空間に縮退させることができる。

複雑な現実を複雑に描くことよりも、
悪から正義へと流れる一直線の方が、
強くてわかりやすくてドキドキして面白い。

それは、理屈ではなくて感情だからだ。


相対的な視点や、個人や組織の正義や、
相手方の事情や正義や正当化を把握するのには、
理屈が必要だ。
しかし「悪を倒せ」は感情だけで判断できる。

感情は強い。
アメリカの暴動は理屈ではなく感情だろう。
暴力は感情だ。
そして行動も感情だ。

理屈や理性だけで、行動したり暴力を行使する人はいない。
そこに必ず感情を伴う。


だから、悪役が、感情のために必要なのだ。



悪役がいると話がまとまるというのは、
複雑な話を一本化できて、
矢印の方向をすべて悪役に、感情的に向けられるからである。

カオスな立食パーティーを纏めるのは、
司会席だ。
悪役は、その位置で感情的に目立つのである。



ということで、
僕は必ずしも悪役が必要だとは思っていない。

カオスすぎて詰まらなくなっているストーリーならば、
分かりやすい悪役の投入を提案するかも知れないし、
悪役がいることで、複雑な現実を矮小化しているのなら、
その悪役を削除して、複雑なことを丁寧に描ききるべきというかも知れない。

悪役は、現実を縮退させるカンフル剤だとわかっておくとよい。
劇的に効果的かも知れないし、
悪役がいないと世界が理解できない、バカの再生産中毒になるかもしれない。
(今のマスコミは中毒に陥っているように思える)

どちらを選ぶかは、結局はテーマに依存するのだ。
posted by おおおかとしひこ at 08:44| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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