ストーリーにはわかりやすい悪役が必要だ。
その悪役をやっつけて、
主人公の価値を示すことがテーマである。
疑問としてあるのは、
「必ず悪役が必要か?」ということだ。
何故なら、人間社会では、
物語のような、
絵に描いた正義と悪の対決になることはないからである。
正義と正義の対決である、
などと揶揄されることがある。
「自分の都合の正当化vs自分の都合の正当化」
ということだ。
これが、個人一人のものでなく、
「組織の都合の正当化」になることは、
会社員やってれば身に染みる経験であるかもしれない。
(組織の正義に個人の正義が潰されるのは、
とてもよくあることだ)
正義とは正当化の理屈でしかなく、
屁理屈はどこにでもつけられる。
客観的正義というのがあるかは誰にもわからない。
「誰から見ても悪」は、
洗脳された集団から見て、かもしれない。
渡部の不倫は悪か?
一夫多妻制度ならむしろ褒められたことだ。
では一夫一妻制度は正義だろうか?
正義や正当化は相対的にすぎない。
大虐殺は悪だが、戦争中は正義だ。
我々は正義のための戦いに高揚し、
軍歌や制服や兵器の行使に歓びを見出す本能がある。
で。
僕は、必ずしも悪役が必要だとは思わない。
ただ、上のようなカオスをきちんと描けることが前提で、
である。
相対的な視点をきちんと守り、
個々の事情と相手の事情を等しく扱える技量があれば、
わかりやすい悪役に頼る必要はなく、
各自が複雑な社会で、
複雑な結論を出す様を描けば良い。
ただしそれよりも、
分かりやすい悪役がいたほうが、
話が強くなるんだよね。
ダースベイダーがいたからスターウォーズは成立した。
力石がいたから矢吹丈は成立した。
悪役は、複雑な社会にヤジロベエの軸を通す。
n次元空間を、一次元空間に縮退させることができる。
複雑な現実を複雑に描くことよりも、
悪から正義へと流れる一直線の方が、
強くてわかりやすくてドキドキして面白い。
それは、理屈ではなくて感情だからだ。
相対的な視点や、個人や組織の正義や、
相手方の事情や正義や正当化を把握するのには、
理屈が必要だ。
しかし「悪を倒せ」は感情だけで判断できる。
感情は強い。
アメリカの暴動は理屈ではなく感情だろう。
暴力は感情だ。
そして行動も感情だ。
理屈や理性だけで、行動したり暴力を行使する人はいない。
そこに必ず感情を伴う。
だから、悪役が、感情のために必要なのだ。
悪役がいると話がまとまるというのは、
複雑な話を一本化できて、
矢印の方向をすべて悪役に、感情的に向けられるからである。
カオスな立食パーティーを纏めるのは、
司会席だ。
悪役は、その位置で感情的に目立つのである。
ということで、
僕は必ずしも悪役が必要だとは思っていない。
カオスすぎて詰まらなくなっているストーリーならば、
分かりやすい悪役の投入を提案するかも知れないし、
悪役がいることで、複雑な現実を矮小化しているのなら、
その悪役を削除して、複雑なことを丁寧に描ききるべきというかも知れない。
悪役は、現実を縮退させるカンフル剤だとわかっておくとよい。
劇的に効果的かも知れないし、
悪役がいないと世界が理解できない、バカの再生産中毒になるかもしれない。
(今のマスコミは中毒に陥っているように思える)
どちらを選ぶかは、結局はテーマに依存するのだ。
2020年06月20日
この記事へのコメント
コメントを書く