2020年06月21日

安全や安心、幸福を数え上げてみよう

人が安心であるとか、安全であるとか、
幸福であるという状況には、
どのようなものがあるだろうか。
ひとつひとつ数え上げてみたまえ。

ちなみに、次に、僕が数えてみたものを列挙する。


原始的なもの

飢えないこと、水があること
出来れば人間的な食事があること
充分寝れること
暖かい布団、湿っていない布団、かゆくない毛布。
ふわふわしたものやあたたかいものに囲まれること。
誰か味方がいること(人間でなくてもよい)
家があること
毎日同じ場所で寝られること
事故や病気に遭っていないこと


社会的なもの

金があること
職についていること
信用があること
めんどくさいやつに絡まれていないこと
尻ふきなどのめんどくさい仕事を負わせられていないこと
名誉があること
尊敬されていること
周囲だけでなく、世間的名誉があること
配偶者に恵まれること
子孫に恵まれること
良い先輩や後輩に恵まれること
指導者に巡り合えること
いいところに住み、いいめしを食うこと
すげえって言われること
好きなことを出来る時間があること
気晴らしが出来ること
ストレスが解消されること
(ないよりは、あって、解消して、というアップダウンがあったほうがいい)
運動が適度にあること


など、など、など。


なんでこれを列挙しようと思ったかというと、
「危険」を考えるためだ。

つまり、人生における危険や危機を考えよう、
ということである。

それが描ければ、
目的はそれを脱して、安全、安心、幸福を希求することだからだ。

だから、この逆を考えればいいのだ。


どういう不幸になるのか?
どういう危険になるのか?
どういう危機になるのか?
それらは、どう複合するのか?

社会的なことと原始的なことを組み合わせても良い。

仕事でしょうもないことを押し付けられて、
ストレスで寝れなくなってもいい。

めしを食えず仕事を首になってもいい。

所属する組織が崩壊して、
名誉を失い、家が差し押さえられて、妻が浮気してもいい。


物語というものは、要するに不幸から幸福へのベクトルのことである。
そして、一直線ではなく、
紆余曲折のことである。
紆余曲折をするには、
新たな危機や不幸が訪れればよい。

問題はややこしくなり、不幸や危機は複合化してゆく。

つまり、これらの表の、逆を考えれば、
面白い(物語的に)不幸を考え付くことが出来るかもしれないということだ。


あなたはどういうときに幸せや、安全や、安心があるのか?

それは、一般的に理解されるものか?
一般的に理解されないものだとしても、
それを一般的に理解される何かに置き換えることは可能か?
いや、置き換えない場合でも、
理解できるように描くことは可能か?

たとえば押井守は犬が好きで、犬のために家を引っ越すくらいである。
その気持ちは理解できないわけではないが、
そういうときに一般的な価値観と対決させればよい。
たとえば子供が生まれたとき、
子供の環境のために引っ越すべきか、犬のために引っ越すべきか、
という二択を描けばいいのだ。

そうすると、そのときの選択で、
感情移入に値するのか、
それとも変人であるのか、
変人でありながら感情移入に値するのかを、
描きわけることができるだろう。


危険や危機は、
それにどう対処するかを描くための前段である。

その対処の仕方こそが物語だから、
砂糖のための塩なのだ。

それをどのようなものを選択するべきかには、
無限の自由度がある。
あることばかり描いていないか?
まだ気づいていない危機や不幸はないか?

こうしたことに気づくためにも、
「自分が思う、幸福、安心、安全」
というものをリスト化し、
俯瞰することは重要である。

もっと細かいことを持ち出して、
どんどん細分化していってもいいぞ。

簡単だよ。自分の安心や幸福を考えればいいのさ。
posted by おおおかとしひこ at 23:51| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。