物語の登場人物は、基本的に最善手を打つことが暗黙のルールだ。
なぜなら、最善手でない悪手を打ったら、
「オイオイ○○の方がええやんけ」と、
観客は呆れてしまうからだ。
もちろん、
登場人物たちに、十分に考える時間や余裕があり、
観客と同じ情報を知っている、
ということが前提条件だ。
観客が考える最善手よりも劣った手をさしたら、
ヘボ将棋のように横からブーイングが飛んでくるわけだ。
最善手以外を取るときは、
いくつかの前提条件のパターンがある。
時間や余裕がない場合。
情報を十分に得られない場合。
もう少し余裕があったら…!
あのことさえ知っていれば…!
などのように観客が後悔することが理想だ。
だから、○○ゆえに最善手を取れず、
主観的な(劣った)最善手を取る、
という場面は、
普通に最善手を取る行動よりも、
書く実力がいる。
そもそも作者の脳味噌が足りてなくて、
最善手がこうだというのに、
それに気づかず悪手を取る登場人物など初心者レベルだ。
現実ではそんなポカもやることがあるかもだが、
あなたが書くのは不確定な現実のコピーではなく、
現実を上手に圧縮して、
小骨を取ったりうまく煮詰めた、
フィクションという名の作り込んだものである。
そんなところでの作者のミスや不覚や実力不足など、
初心者レベルでしかない。
最善手を取れないのであった、
なぜなら○○だからである、
というハラハラまで仕込めて、
ようやく一人前ではないだろうか。
つまり、
ある状況下での最善手など常に客観的にわかっていて、
それを取れない自然な理由を探し出し、
ハラハラの要素に使う、
というのが、
作者に求められる実力ということだ。
どうしたらそれができるか?
自分がその場にいたとしたら、
自分がその人物の立場だったら、
と想像するしかない。
そして、観客も、
自分がその人物の立場だったら、
と想像しながら見ていることを忘れてはならない。
あなたがシナリオを書いている時にする想像は、
観客が映画を見る時にする想像と同じなのだ。
だから感情移入もすれば、
最善手を考えもするのである。
頭の良すぎる作者は、描く最善手が凡人には分かりにくいので、
時々IQを下げたり、解説を入れると良い。
少し頭のいい作者は、観客の半歩先をキープするのが良い。
アホな作者は勢いでごまかせ。
相手は普通の大人だ。
普通の常識の範囲内で、
この情報と目的を与えられたとしたら、
を考えれば、
最善手は普通に出てくるものだ。
しかし客観性を失っている状態では、
それすら気づかないかもしれない。
それはストーリーをコントロールしているのではなく、
ストーリーに振り回されているのだよ。
すべてを支配下に置いてないと、
コントロールも効きづらいよね。
2020年06月23日
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