趣味でやってたとしても、執筆そのものは苦しい。
「好きなもん書いてて楽しいだろ」なんてのは、
やったことない人だ。
それでもなんで書くかというと、出来た時の喜びのためだ。
だから、その苦しみに見合う、出来の良いものでなければならない。
大抵の初心者が挫折するのは、
苦しい対価に対して、
出来がそれほどでもないと予想されるからだ。
思ったより苦しいため、リターンが読めなくて挫折するのだ。
つまり敵は「こんなのやめちまえ」と思う自分だ。
このコストとリターンのバランスを知るために、
僕はまず短編をたくさん書けと言っている。
1分のショート、
5分のショート、
15分のショート、
なんでもいいので、
まずは「出来たー!」まで書ききる経験をした方がいい。
(簡単なのは、一日で書ききれる量のお話を書くことだ)
なぜ苦しいのか。
想像が溢れまくる場合、
それに追いつくことが苦しい。
頭の想像の中のほうが豊かで、
実際に書かれた原稿のしょぼさとの差に苦しむ。
想像の中の黄金は、
現実の紙の前ではボロ雑巾である。
それが苦しい。自分の未熟さに辟易する。
想像が出てこない場合も苦しい。
次にどうすればいいか分からない、
もう手持ちのアイデアが尽きた、
やることはわかってるがいい糸口が見つからない、
適当に書き出したもののこの先どんどん詰まらなくなりそう、
行けるやろと思ったら迷子になった、
などはとても苦しい。
プロットにヒントがないか戻ってみても、
「うまいこと行く」しか書いてなかったりして、
過去の自分の安易な見積もりを呪う。
何をやっても○○の真似と言われそう、
オリジナルのアイデアを出せない自分を呪う、
やっぱり自分は才能がないんじゃないかと、
この先の長さに絶望する。
ふと我に帰った時も苦しい。
集中力はいつか途切れる。
ふとコーヒーなど飲んで一休みしたとき、
想像の世界から現実の世界に戻ってきたとき、
書いたものが大したことないと気づく時の恐ろしさよ。
気づきは疑惑や疑心暗鬼になり、不安になる。
いや、思いつき自体はいいはずだと自分に言い聞かせたり、
それは客観的に見れば我が子が可愛いだけだと分析したり、
そもそもここまではどの名作より劣っているではないかと、
批判的な理性が顔を出す。
これだけ苦労して書いたのに何にもなっていないと疑惑がある時に、
まだ続きを書くことはとても苦しい。
勝負は最後までやってみないと分からないぜ、
ここから名作になるかもしれないし、
そしたらここはリライトすればいいのだ、
と思えるのは、
それを経験した人だけだ。
かくして、
「成功したことのない人は失敗する」
現象が起こる。
これだけ苦しくて成功しなかったから、
もうこれ以上苦しいのに耐えられない、
となり、
いずれ書くのを辞めてしまう。
だから僕は、まず最後まで書ける量で完結せよ、
と言う。
1分なら400字でいいんだ。
このブログは大体一記事2000字だから、
5分くらいの分量だ。
それじゃあ大したことない話は書けない、
映画みたいなすごい話は書けない、
と思うだろう。そりゃそうだ。
しかし映画のワンシーンというのは大抵3分以内で、
それが80から120くらい集まれば二時間映画になる。
ワンシーンを書くつもりで書けばいいのだ。
ただし前振り、展開、落ちが必要なだけで。
さらに、そもそも良く出来た映画のワンシーンは、
ワンシーンの中に前振り、展開、落ちがあるもので、
短編をきちんと書いてきた人の書くシーンというものは、
シーンがひとつの話になっているもので、
その連続が面白いように組んであるものだ。
苦しいのは皆同じ。
じゃあなんで書くかというと、
出来上がったときの喜び以外にない。
勿論、それをみた人の反応なども喜びだけど、
正しく自分の話を評価していれば、
大方の反応など予想がつくから、
その確認でしかない。
僕は、執筆は掃除に似ていると思う。
頭の中に展開した散らかったものを、
正しく整理整頓するようなものだと。
提示する順番や量がベストになるように、
正しく整えることが執筆であると。
掃除そのものが好きな人はいないだろう。
掃除し終えたあとの綺麗さ、整い方があるから、
掃除は出来るのだと思う。
途中で苦しくて投げ出す人は、
部屋や家を掃除しきる前に引っ越してしまうような人だろう。
だから僕は、まずは机の上やフォルダ内くらいでやろうぜ、
と言っているのだ。
綺麗にした経験があれば、
この掃除は報われることを知っているから、
その苦しさに耐えられる。
あとは、その総到達距離を、
少しづつ伸ばしていく。
潜水にたとえる人もいる。
それも最初は数メートル潜ることからだろう。
いきなりマリアナ海溝まで行ったら、
死ぬに決まってる。
苦しさは、徐々に慣らすのだ。
2020年06月24日
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