2020年06月23日

人間将棋の話、続き

このフォーマットは、デスゲームもののフォーマットと実は同じだね。


デスゲームものの基本構造は、
「ある日突然知り合いを殺し合う、
または知り合いと死をかけたゲームに参加を強制させられる」
というものだ。

カイジならばギャンブルによる借金、
キューブなら謎の組織による拉致、
ガンツなら列車事故、
地下格闘ものなら腕試し、
などなど、
そのきっかけは様々だ。

そこで初めて知り合うパターンもあれば、
恋人や友達など、
親しい人もそこに巻き込まれていることもあるだろう。


感情移入は、ゲーム参加前に終わっていることが多い。
(あとでエピソードとして追加されることもある)
なぜなら、ただの他人が死をかけたゲームに巻き込まれるより、
感情移入を少しでもした人が巻き込まれるほうが、
面白いからだ。

そして、
ただ人が生き死にしているよりも、
感情移入した人が生き死にするほうが、
ドラマとして面白い。
痛みもあれば悲しみもあれば怒りも悦びもある。
人生で味わうすべての感情を、
デスゲームで味合わせることすら、
可能かも知れない。

逆に、人生で味わうすべての感情を味合わせるような、
架空のゲームをつくることが、
デスゲームものの醍醐味だと言っても良い。


で、
人間将棋はそれをうまくやったと言える。

映画的な感情移入ではなく、
リアルな親しい人という感情移入で。

感情移入さえうまくいけば、
彼らが生き死にをかけたり、
敵方に寝返ったり、
かつての敵は今日の友になったり、
殺したくないという感情が芽生えるなど、
将棋はデスゲームのひとつになるわけだ。


これらの「わかっていること」をすべて企画者が分かっていたかは分からない。
カンだけで企画したら面白かったのかも知れない。

物語というのは、不意に突然こうやってできる。


これがストーリーとして成立したのは、
ラストに電話やメールをしたラストシーンだよね。
「大切な人は、大切だ」というような、
ごく当たり前の普遍的な結論に持っていったのが、
なんだかリアルでよろしい。

そもそもデスゲームもののテーマは、
「平凡な日常というのはなんと素晴らしいのだろう」と、
非凡な殺し合い側から見ることだからね。


それを分かった上で、
これに匹敵する感情移入をどう作り込むか、
これに匹敵するデスゲームを別のジャンルで出来るか、
などと想像していくと、
新しいデスゲームものが作れるかも知れない。

あるいは、
「突然強制参加」をやめて、
徐々に巻き込まれていくようにすると、
普通のストーリーものになったりするよ。
posted by おおおかとしひこ at 13:20| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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