これは一つの才能でもあるし、
足を引っ張る要素でもある。
思い込みの激しさは、
才能の源泉のひとつだ。
一人の夢想の世界に入り込むときの補助をしてくれる。
どれだけ集中してひとつの世界に入りこめたかで、
作品のオリジナリティというものは決まる。
その集中力をずっと続けられるか、
それをどこまで深く潜れるか、
ということは、才能のひとつだと思う。
僕はどんな場所でも書く。
そのとき周囲の音やノイズはほとんど聞こえなくなる。
いわゆるゾーンというやつかもしれないが、
僕はそれをつくるのに一分も必要としない。
すぐにできる。
それはひとつの思い込みの力である。
ほかを捨てて、それだけに集中するわけだ。
(そのとき火事が起こっていたら、僕は死ぬと思う)
しかしそれは、諸刃の剣でもある。
滑っているかどうか、
チェックできないからだ。
物事を客観的に見て、
それは自分だけの思い込みに過ぎず、
世間からずれていることに気づく力は、
思い込みの力と反比例するかもしれない。
ずれていると自覚しながらその世界をキープすることは難しい。
思い込みの力が強いほうが、
作品力があがる。
そして思い込みの力がないほうが、
作品を客観的に評価できる。
どっちを大事にすればいいのかでいうと、
両方できなければならない、
というのが結論だ。
客観的で普通の思考しかないのなら、
そもそも作品をつくろうと思わない。
世間とずれたことによって傷ついた心や、
ずれを埋めたいと思うことこそが、
僕は創作の原動力だと思っている。
コンプレックスのないやつのつくるものなんて、
表面をなめただけのくだらない偽善だ。
しかしその思い込みの深さに対して、
同時に客観性のない状態だと、
「それは君だけの世界でしかなく、
一般性が欠ける」と言われるだけである。
つまり、冷静と情熱の間である。
間にいてはいけない。
冷静と情熱の、どちらにもいないといけない。
あなただけの、深くオリジナリティのある思い込みを、
いかにしてみんなが楽しめて、奥底まで到達できるものにするのか、
情熱でつくったものを冷静で検証しないといけないのだ。
しかも、同時にね。
これはある程度訓練することができる。
才能のある俳優は、自分の演技を外から見ながら、
涙を流したり爆笑したりするという。
なんだか分裂病のようだが、
人間に不可能なことではない。
思い込みのない話などつまらない。
思い込みだけの話はだれにも通用しない。
両方をつねに稼働させておくことだ。
客観はときに批判しすぎることがある。
こんなもの発表するやつは馬鹿だとかね。
それをねじ伏せるだけの、面白さという情熱を保たないと、
おそらく最後まで書くことはできないし、
情熱を冷静に分析して、
誰にでもその特殊な思い込みをプレゼンできるようにならないと、
普遍の価値を獲得しない。
ということで、
つねにあなたは分裂していなくてはならない。
すべての芸術を嗜む者に、
必要な能力だ。
2020年07月05日
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