2020年07月05日

思い込みの激しさ

これは一つの才能でもあるし、
足を引っ張る要素でもある。


思い込みの激しさは、
才能の源泉のひとつだ。
一人の夢想の世界に入り込むときの補助をしてくれる。
どれだけ集中してひとつの世界に入りこめたかで、
作品のオリジナリティというものは決まる。

その集中力をずっと続けられるか、
それをどこまで深く潜れるか、
ということは、才能のひとつだと思う。

僕はどんな場所でも書く。
そのとき周囲の音やノイズはほとんど聞こえなくなる。
いわゆるゾーンというやつかもしれないが、
僕はそれをつくるのに一分も必要としない。
すぐにできる。
それはひとつの思い込みの力である。
ほかを捨てて、それだけに集中するわけだ。
(そのとき火事が起こっていたら、僕は死ぬと思う)

しかしそれは、諸刃の剣でもある。

滑っているかどうか、
チェックできないからだ。

物事を客観的に見て、
それは自分だけの思い込みに過ぎず、
世間からずれていることに気づく力は、
思い込みの力と反比例するかもしれない。

ずれていると自覚しながらその世界をキープすることは難しい。

思い込みの力が強いほうが、
作品力があがる。
そして思い込みの力がないほうが、
作品を客観的に評価できる。

どっちを大事にすればいいのかでいうと、
両方できなければならない、
というのが結論だ。


客観的で普通の思考しかないのなら、
そもそも作品をつくろうと思わない。
世間とずれたことによって傷ついた心や、
ずれを埋めたいと思うことこそが、
僕は創作の原動力だと思っている。
コンプレックスのないやつのつくるものなんて、
表面をなめただけのくだらない偽善だ。

しかしその思い込みの深さに対して、
同時に客観性のない状態だと、
「それは君だけの世界でしかなく、
一般性が欠ける」と言われるだけである。

つまり、冷静と情熱の間である。

間にいてはいけない。
冷静と情熱の、どちらにもいないといけない。

あなただけの、深くオリジナリティのある思い込みを、
いかにしてみんなが楽しめて、奥底まで到達できるものにするのか、
情熱でつくったものを冷静で検証しないといけないのだ。
しかも、同時にね。

これはある程度訓練することができる。
才能のある俳優は、自分の演技を外から見ながら、
涙を流したり爆笑したりするという。
なんだか分裂病のようだが、
人間に不可能なことではない。

思い込みのない話などつまらない。
思い込みだけの話はだれにも通用しない。

両方をつねに稼働させておくことだ。


客観はときに批判しすぎることがある。
こんなもの発表するやつは馬鹿だとかね。

それをねじ伏せるだけの、面白さという情熱を保たないと、
おそらく最後まで書くことはできないし、
情熱を冷静に分析して、
誰にでもその特殊な思い込みをプレゼンできるようにならないと、
普遍の価値を獲得しない。

ということで、
つねにあなたは分裂していなくてはならない。

すべての芸術を嗜む者に、
必要な能力だ。
posted by おおおかとしひこ at 00:02| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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