2020年06月28日

【薙刀式】思考の様式とタイピング

人によって様々だというのは頭ではわかっていることだけれど、
こうも違うと、なぜ人はそれでも意思疎通が出来るのか、
というバベルの塔みたいな気分になってしまう。

めんめんつさんの思考スタイル。
https://menmentsu.hateblo.jp/entry/2020/06/28/003439


自分の思考スタイルはあとで書くとして、
この、
「脳から出てきたことばが空中でストックされ、
作業脳をもつ出力器が順次具現化していく」
という感覚は、
僕ならば「言う」スタイルだと感じた。

喋っているときは、
脳が適当に思いついたことを、
(その是非や首尾一貫性や妥当性など深く考えず)
ただ漏れしていく感じで、
(まあだからお喋りには無駄が多いのだが)
その感覚に近いなあと。

ストックのメモリ量は精々数フレーズ。
ちょっと出たらまた考えるのも、
間欠的だと思う。


めんめんつさんはたしか脳内発声があると言ってたので、
彼のタイピングは、
言うことにとても似ているのかも知れない。

タイピングしながら訂正したりするのも、
口が滑って言い直すことに、
とても近いように思える。

(これは創作文の場合で、コピー打鍵とはまた違うだろう。
コピー打鍵の場合、音声オフで視覚言語に近くなるはず)

親指シフトの宣伝文句は「指が喋る」だが、
こんなことを意識していたのかも知れない。



で、自分の例。

僕は、言うことと書くことは、全く別のルートを使っているようである。
言文一致が親指シフトやめんめんつさんのスタイルだとすれば、
僕の「書く」は、言文不一致であると考えられる。

つまり、言う時と書く時は、まったく別の回路を使っている。
思考するときも、
言う時の思考と、書く時の思考が全く異なる。

書くときは、なるべく脳の中に考えを巡らせる。
それは言語にまだなっていない。
言語状態だと情報量が多すぎて、脳内にひとかたまりに浮かべられないからだ。

それはふわふわした餅のような形をしている。
僕にとって思考とは、その餅を変形させたり、
グルグル回して裏を見たり、
中に何が入ってるのか二つに割ってみたりすることだ。

これは言語を介していない。
ときどき、「あ、これを言葉で言えば○○だな」
と思うことがあるが、
それは色や触覚のような別の感覚に変換される。

僕は触覚優位派なので、触覚が思考なのだと思う。

で、それが「外に出せるひとかたまりになった」
(矛盾がなく、一次元の言語で記述でき、
落ちがあり、要約が存在する)
状態になった感覚になったら、
筆を取る。

このときペンでもいいしキーボードでもいい。
ていうか、二つを区別したくないし、
それが目的で薙刀式をつくってきた。
(キーボードはぎりぎりの所で負けていて、
それは後述)

あとは、
頭の中の餅を、書き出しの部分から紐にして取り出すだけだ。
ここから先は表現機械になる。
頭の中の思考を、どう言語に変換すると正確か、
どのように書くと表現として面白いか、
などを判断しながら、
言語に落としていく。

落とされた具体言語は、
脳から腕、手を通じ、ペン先またはキースイッチから、
具体的文字に落ちていく。

実際には脳とペン先、脳とキースイッチが直結していて、
「書く」と思えば動くので、
体を通している感覚はあまりない。
(意識して観察すると、血液のように通っている)

フレーズのストックは言うときほどなく、
ことばが脳と手先の間で渋滞することはない。

めんめんつさんの言葉を借りれば、
脳と手は常に同期している。

正確に言うと、
脳の中で、まとまった餅の部分と、
それを端から芋づる式に取り出して言語化する、
ふたつの部分があり、
言語化するところに手が繋がっている。

芋づるが常に途切れなければ、言語化はスムーズに進むが、
時々分岐したり、途切れてしまったりして、
さて、残りの餅のどこを糸口にしようかな、
などと長考することもある。

餅はでんと質量をもっていて、
書けば書くほど減ってゆく。
書き終える、つまり餅がなくなったらおしまい。

だから肩の荷が降りて楽になる。
書くときは常に重荷を背負っているわけだ。

逆に、「書ける」と思うまで書かないので、
その前に、書ける状態にするまでの時間が長い。
ライターの間では「カウチライティング」と俗語でいうが、
「ソファに座ってごろごろと脳内で夢想している時間」
が実作業時間よりも長いことは普通だ。

で、
ペンの方がまだキーボードより楽だ。
なぜなら、漢直だからだ。

キーボードはカナの入力自体は早く、
薙刀式の拗音同時などはとても便利だし、
BSやアンドゥも楽なのだが、
漢字変換の一手間が邪魔だ。

ここでめんめんつさんのいうストックが起こる。

かな漢字変換という機構を考えるとしょうがないのだけど、
これを作った人は、
「言う」ような時のストック感覚だったのではないか。
「書く」時のダイレクト感からすれば、
コンドームをかぶったような隔靴掻痒感がつきまとう。



僕の中では「書く」と「言う」はまったく異なる行為で、
僕は喋りよりも書く方をやってきた。

なんでか考えると、
幼少期の引っ越しが大きかったかも知れない。

関東地方から大阪に行ったので、
イントネーションや言語体系(ボケとツッコミ)の違う言語を、
まず言えないと話にならず、
大変混乱した記憶がある。

それまでの脳内言語も発声言語も標準語だったから、
適応の際に両方書き換わらず、
「言う」は大阪弁、
「書く」は標準語に、
分裂した可能性が高い。

で、自分の中の核を守るために、
「書く」を核にして、「言う」は表面を覆う膜のように発達した可能性が高い。

僕は言うことは適当だが、
書くことには本気であるなどと無意識に思っているが、
そのような構造が脳内にあるのかもしれない。

たまに大阪弁を書くこともあるが、
それは言うことにとても近い。

それと地の文であるところの標準語は、
別の次元にいる感じ。


おそらく標準語話者は、言文一致の感覚なのかもしれないが、
非標準語、すなわちくにの言葉で喋りながら、
標準語で書く者は、
似たような感覚を持っているのではないかと想像する。

このことを嫌い、大阪の作家藤本義一は、
「なるべく大阪弁で書こうや」などと言っていたと思う。
逆に僕は大阪弁で餅をつくることが出来ず、
大阪弁を書くことでは、
思考が進まない感覚がある。

つまり、思考と喋りは、
僕の中でまったく別ルートのようだ。



ということで、
人には色々なタイプがあると思う。

議論に出ていないタイプの思考スタイル、
書くスタイル、言うスタイルもあると想像する。

ほんとうは、
タイピングやIMEや配列というのは、
こうしたことまで分かった上で設計するべきだ。

しかしこうした議論を僕は聞いたことがない。

脳内での思考様式や、
書く時の脳の使い方が、みんな「自分と同じ」だと、
先入観で思い込んでしまうのではないだろうか。

配列はああでもないこうでもない、
という議論は、
ひょっとしたら、脳内のスタイルの違いという、
根本的なところと関係しているかも知れない。


(これを進めると、
人種や男女で全く違うことが明らかになる可能性があり、
脳科学の闇の部分でもあるのだが、
物理的に機構が異なったとしても、
機能上意思疎通ができれば同等とみなしてよい、
という機能主義が、物理差別を救う思想となるだろう)
posted by おおおかとしひこ at 10:50| Comment(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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