2020年07月04日

バッドエンドをうまく利用した(「ライフオブデビッドゲイル」評)

ここのところミステリー系をよくみているので、
バッドエンド系がやたらと多い。

バッドエンドは、何かを批評するためにある。
この映画はその痛烈な刺さり方が素晴らしい。

これ以上は何も言えない。
主演二人が素晴らしいとか、
死刑制度とは、とか、表面的なことしか、
ネタバレなしには言えず、だからこの物語は、
永遠に人に広まらないのが惜しい。


バッドエンドはこうやって使う。
ただハッピーエンドが思いつかないから、
逆張りにしてバッドエンドにしてやった、
というのが素人以下のうんこバッドエンドだとしたら、
この作品は超一級のバッドエンドである。

以下ネタバレ。


そういう殉教者だ、
と分かって回想すれば、
あれもこれも女記者(私たち観客の目線)に、
すべてを訴えるための用意周到な作戦だった。

女学生から全部仕込みだったのか、
それをアクシデントとして利用したのかは分からないが、
(ラストの金を見る限り、仕込み?口止め?)
彼女が白血病になったことで、
彼らの心は決まったのだろう。

NY知事との舌戦で、
それが伏線になり、
冤罪落ちになるのは見えていた。

だがしかしラストカット。
「オフレコ」と伏線の回収にしたビデオの、
カメラ目線のぞっとするような感じ。


死刑になるバッドエンドは、
彼らにとって勝利だったのだ、
というどんでん返しよ。

「死刑は止めなければならない」
「冤罪は止めなければならない」
を逆手に取った、
恐るべき背理法よ。


これは彼ら死刑廃止活動家の、勝利だろうか。

現実の解決できていない、とても重たい問題を、
エンターテイメントに昇華するこの手腕よ。



自分がこの脚本を書くとしたら、
ということを想像すると、
軸足はラストに尽きると思うだろう。

彼らの計画のように用意周到に準備された、
この脚本こそ芸術である。


しかしラスト前、
ぬいぐるみの腹から出てきたビデオを会議室の再生機にかけるために、
走るときの乳の揺れは、
やりすぎじゃないですかね。

まあ、そこぐらいしかお楽しみのない、
全てが重たい映画だった。


バッドエンドはこうやって使う。
ただハッピーエンドが思いつかないから、
逆張りにしてバッドエンドにしてやった、
というのが素人以下のバッドエンドだとしたら、
この作品は超一級のバッドエンドである。


皮肉、背理法の勉強に、この作品は分析に値する。
頭の良い人は、どこかおかしい。
その感じが最高だった。
posted by おおおかとしひこ at 15:25| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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