経験則。
撮影して編集してみるとよくわかる。
大抵、俳優の間は長い。
編集後の間は、詰められていることが多い。
(日本映画はワンカット長回しが多いため、
たるいテンポが多いぞ)
なぜ違うのか、説明できるだろうか。
俳優は、話を理解しながら演じているからだ。
つまり、
今目の前で起きていることに、
リアルで反応するわけではなく、
筋書きを知った上で作った反応をしている。
だから、
「俳優が理解する時間」だけの間が空いてしまう。
これは、「他人に何かを説明する自分」を撮影し、
再生してみることでよくわかる。
「自分で話す説明を、理解して確認しながら話す時間」
が、あなたの間に含まれているよ。
講演会、授業、喫茶店の話。
そうしたものは、「話を自分で理解しながら話す」が存在する。
映画において編集された間の場合、
観客の理解を置いてけぼりにして、
ガンガン進めるテンポも存在する。
そこで一息ついて、「あれは何だったんだ!」
と展開することもある。
あるいは、ちょうどいいテンポで、
先回りした半歩先の回答が用意されていたり。
(これを2時間煮込んだものがこちら)
こうした「飛ばし」をせずに、
俳優たちはつい「理解しながら」演じてしまう。
もっとも、
それが上手に書いていない脚本だから、
俳優はそうなってしまうのだ。
臨場感があり、
「ああ、ここではこの人は起こっている状況を理解できず、
流されているのだな」
と俳優が理解すれば、
観客のテンポで演じるかも知れない。
つまり、
退屈な間は、そもそも脚本に問題がある。
すべてを分かって演じたとしても、
「ああ俺はこの状況をよく分かっていない」
という文脈が存在すれば、
俳優はそのように演じる。
そうなっていない、
全部どうなるか分かった上でつい書いてしまった脚本は、
全部どうなるかわかった上で演じられ、
やっぱり間がたるいし、段取りになる。
いま、その登場人物は、
過去と、いましか見えていない。
未来がどうなるか、誰にも分からない。
その時にその人はどういう反応をするか、
どういう判断をするのか、
書けていなければ演じることもできない。
それを俳優のアドリブに頼るのは、
あなたが演技、すなわちお話そのものを放棄している証拠である。
2020年07月10日
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