2020年07月10日

シンデレラストーリー

何故か最近ファイアパンチの記事が沢山読まれていて、
チェンソーマンで何かあったのかね。(ちなみに1巻切り)

久しぶりにファイアパンチの過去記事を読んでみた。
最近、「男のシンデレラストーリー」が増えてるのでは、
などと感じていて、それを論じてみたい。

シンデレラは、ストーリーか?
という問いから始めよう。


シンデレラのお話は、
僕は「願望の成就を描いたもの」だと思っている。

現実の世界で願望を成就するには、
大変な努力と幸運が必要だ。

だが、ほとんどの人は、
大変な努力は大変だからやらないし、
宝くじに当たるような幸運もやってこない。

だけど、成功した妄想だけはしたい。

シンデレラは、その妄想を形にしたものである。

だからシンデレラはストーリーではない。
ストーリーとは、
「ある目的に対してした行動とその結末と、その価値」である。
行動は0だ。全面的に受け身だからね。


シンデレラは努力をしない。
ただ幸運なだけだ。

現実では、幸運なだけでは成功しない。
幸運と努力はペアである。

だからシンデレラは、
「努力せずに幸運だけで、受け身だけで勝利する妄想」
を形にしたものである。


歴史的に、女は社会進出が難しかった。
だから容姿で男に気に入られ、身分を保障されるしかなかった。
だからそれは殆ど幸運に過ぎず、
女の努力といえば、きれいになること以外になかった。

そんな歴史的文脈の中で、
シンデレラは「努力の必要なく幸運だけで、受け身で勝利した女」
を描く。

これは、努力が嫌な女たちの、
努力しても出口がない女たちの、
妄想の願望を形にしたものだ。

初期のフェミニストは、これを批判した。
「女だけが容姿で幸運をつかめるのは不平等である。
男と同等を望むならば、
容姿だけで幸運をつかめると女たちに先入観を埋め込むこの童話は、
悪書である」と。

最近のフェミニストは馬鹿なので、批判しない。
「努力せずに幸せになれるなら、それでいいじゃん」
とすら考えているかもしれない。

結局、女たちは女の既得権益を手放さなかったのが、
シンデレラをめぐるフェミニズムの歴史だと、
僕からは見えている。

(「かわいいは正義」「かわいいは作れる」「女磨き」「化粧や整形は武器」
などなどの耳心地のいいワードは、
すべて容姿を手に入れられるという幻想を、
強化するための幻想呪文である)


で。

イケメンブームから随分長いけれど、
男すら最近容姿がダメだと相手にされなくなりつつある。

ここで男の、(馬鹿な)女化が進んでいると感じている。
つまり、「努力せずに幸運だけで勝利したい」だ。

「両親ガチャに外れた」「遺伝子ガチャ外した」
「ただしイケメンに限る」
などという自虐ワードの裏には、
もはや努力だけでは如何ともしがたい能力の壁にはばまれ、
幸運でしかはい登れない絶望的状況において、
その幸運があればいいのに、と念じる、
シンデレラと同じ願望が透けて見える。

たとえばラノベ。

これは、彼らにとってのシンデレラストーリーだ。
少し前まで流行ったのは、
「中世異世界に飛ばされた、なんでもない俺が、
現代の知識を披露しただけで神扱いされ無双する」
というパターンだった。

これは、
「不幸な自分が、なにひとつ努力せず、
幸運だけで魔法をかけられて幸運を掴んだ」
シンデレラと、同じ形をしている。

ちなみに最近流行しつつあるのは、
「ある組織から首になったのだが、
その組織の雑用は全部自分一人でやっていたため、
有能な俺が抜けて雑用で大変なことになり、
その組織は傾く(ざまあみろ。俺を軽視した報いだ)。
そして真の能力を認めてくれた組織がヘッドハントしにくる」
のパターンらしい。

派遣社員の悲哀が、
そのままシンデレラ的願望になっていて、
なんという痛々しさか。


僕は、それを楽しみにする人たちを非難しない。
人は全員が強くなれない。
全員が努力しても結果には序列がつく。
勝利の裏には何倍もの敗北が存在する。

非難するべきは、
そんな人たちを癒す形式の物語で、
つまり願望を形にしただけの、
「努力しなくていいんだよ、幸運で勝利するラッキーボーイの話をしよう」
というメッセージを送り続ける商売人だ。

売れるからといってそのような悪書をばら撒くのは、
僕は武器商人と同じ、悪魔の所業だと思う。

「敗北者には敗北者の世界がある。
そこでまた勝てる努力をして、徐々に這い上がってゆけば良い」
というストーリーを書き、
勇気付ければ良いではないか。
「鶏口となるも牛後となるなかれ」の故事もある。

なぜそうしないかというと、
そんなストーリーを書くのは難易度が高いからだ。



シンデレラを書く人には、二種類ある。

ふつうのストーリーも書けるが、
あえて悪書として「努力せずに幸運だけで勝利する」
を描く、悪意のある商売人。

もうひとつは、「成功したことがないので、
努力の成果も知らず、幸運でしか勝利のイメージが湧かない」
貧弱者だ。


シンデレラは弱者の女の物語だった。

しかし今やフェミニズムは一定の成功を収め、
(ある程度までは)女にも社会進出のチャンスは開かれた。

だから、優秀な女を子供の頃に洗脳する悪書は、発禁にすべきである。

もちろん、人には選択の自由がある。
弱者になり、幸運だけを首を長くして待つ者になるのも自由である。

問題は、人生の成功の多様性、社会のいろんなあり方を描けない、
作者側にあると僕は思う。


つまり、
男に容姿の刃が突きつけられて、
男のシンデレラストーリーが増えたように思う。

女作者が少年主人公で、
代替物としてのシンデレラストーリーを描くパターンも増えた。
これに汚染されてはならないと僕は思う。



ファイアパンチに戻ると、
あれはただのシンデレラストーリーだ。

チェンソーマンは1巻までだと、同じ匂いを感じたので切った。

もしこの漫画が以降も変わらず、
それでも人気だというのなら、
シンデレラストーリーに夢を見る、
伝統的な弱い女と似たような、
弱い男が増えている証拠だ。

僕はマスキュリズムの70年代に育ったので、
男は自分を鍛えて意味があると考えている。


時代は変わるから正義も変わる。

今の男シンデレラストーリーは、売れるかもしれないが、
世界を幸せにはしないと思う。



ちなみに、「ロッキー」の出だしは、
シンデレラストーリーだ。
チャンスが偶然やってきたのだから。

しかしロッキー本人がそのチャンスにどう向き合ったのか、
その努力が本編なのだから、
ただのシンデレラストーリーではない。

(「俺にもこんなチャンスがやってきたら、
こんだけ努力できるのになあ」と夢想するアホも一定数いるだろう。
しかしそれはどんなストーリーでもそう思う、
現実と噛み合っていない野郎だ)
posted by おおおかとしひこ at 22:50| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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