と、極論してみよう。
カット割が、とか、
アングルが、なんていう人は、
たぶんカット割りのことを本当にはわかっていない。
わかってないから、部分だけ取り出して、
さも鬼の首を取ったように言うのだと僕は思っている。
映像美とかトリック撮影なんて所詮ガワで、
ハッタリ以外の何者でもない。
それは数分持つけれど、二時間持たない。
二時間かけてやるべきことはストーリーである。
つまり、カット割とは、ストーリーを語るために、
主にある。
編集の極意は、
以前にも書いたけれど、
「カットが変わったことに気づかないこと」だ。
ヒキとヨリと別のヨリの3カットで語ったとしても、
体感上は1カットだったように思えるのが、
本当の編集というものだ。
流石に場面転換はカットが入ったことはわかるだろうが、
それすらも自然であれば、
ほとんど気づかずにストーリー進行に注視しているはずだ。
「うわあ絶景ロケだ。ここはどこで撮影したんだろう。
こんな所があるんだなあ」
なんて思っているのは、
下手な編集または下手な内容で、
ほんとの編集と脚本ならば、
「この焦点はどうなるのか?」
だけを観客は心配し続けているはずである。
それなのに、横に注意を逸らすのは、
編集的にもシナリオ的にも、
まずいと僕は考える。
さて、本題。
要するに編集とはヒキとヨリだ。
議論の簡単化のため移動ショットはのぞき、
あとで統合する。
ヒキとは、「そこで起こっている最大広さ」だ。
キスならば顔と顔がヒキとも考えられるし、
美しい夕日の無人島のキスならば、
砂浜と海と空と夕日と、二人が入るサイズがヒキだろう。
舞台演劇は全てヒキで語られていた。
「そこで起こっていること」を、
「そこでの最大サイズ」で語るのが演劇である。
だから映画以上に空気が大事で、
観客との呼吸なんかも関係してくる。
映画は最初期はヒキワンカットと演劇と同じだったが、
クローズアップを手に入れたことで、
モンタージュ(編集)を手に入れた。
ヨリ(アップ)とは何か。
「起こっていることのサイズが、変わる」
ということだ。
恋をしたら周りが見えなくなり、
相手の顔だけを見続けたくなる。
敵が刃物を出したら、その刃物に注目がいく。
離婚届にハンコを押すか押さないか、
その書類を見続けるとき。
あるいは、コロナウィルスが誰かの皮膚に侵入する瞬間。
このように、
私たちは、「起こっていることのサイズに、
意識の範囲を狭める」ことができる。
その意識のリズムに合わせて、
そのサイズにヨリになると、
私たちは編集されたことに気づかない。
「起こっていること」に注目するからだ。
つまり、
編集とは、「起こっていることを、随時的確なサイズで示す」
ことに他ならない。
逆を取ると、「起こっていることのサイズが変わらなければ、
編集の必要はない」。
何かトラブルが起こっていたり、
それを解決しようとするときは、
起こっていることのサイズはしょっちゅう変わる。
あたふたしている。
それが変動ということだ。
物語とは、平坦で変わりのない日常から、
異物によって変更を余儀なくされ、
元の日常へ戻すことを目標に行動して、
結果以前の日常より良くなることであった。
そんな変動がないのは、
平坦なただの日常で、
それはカット割が必要がないのである。
たとえば、平穏な渋谷スクランブル交差点の、
監視カメラのように。
監視カメラは定点でワンサイズでノー編集だ。
何も起こっていないならばそれでよい。
そしてそれは、映像としては捨てるべき部分である。
そこで、
車が衝突したり、
全裸の男が前転したり、
ヤンキーが喧嘩したりすれば、
定点カメラはアップになるべきだ。
「それが起こっていることがわかるサイズ」にだ。
それが平凡な日常ではない、
ストーリーに必要なもの、「事件」である。
あとは、その事件がどういうものか、
わかる的確なサイズまで寄ればよい。
車の運転手が原因ならばそこに寄るし、
子猫を避けようとして横転したなら、
子猫や横転した車に寄るべきだ。
全裸男の前転中にイチモツが見えたらそこまで寄るべきだし、
そこに警官が駆けつけたら、
全裸男と警官たちのサイズになるだろう。
ヤンキーの喧嘩ならば、
凶器を持ってればそこまで寄ればいいし、
ポケットにクスリを隠したならそこまで寄ればいい。
ケータイで仲間を呼んだら呼んだやつに寄り、
仲間が道玄坂から来たら、道玄坂に寄ればよい。
相手がヤベエと思ったら、その顔に寄ればよい。
つまり、
カット割とは、
「そこで何が起こっているのかを、
起こっているサイズで提供する」
だけでいいのだ。
特殊なテクニックなどいらない。
そこで起こっていることさえ面白ければ、
斬新なカットワークなどむしろ邪魔である。
そんな小手先のテクニックは、
起こっていることが詰まらないから、
ガワで誤魔化しているだけなのだ。
映像とは、ヨリとヒキを組み合わせてストーリーを語る。
適切なサイズに適宜切り替えて。
つまり、あなたの語る話が、
ヨリとヒキを適宜切り替えて語れるような、
起伏のある変動の多いストーリーでない限り、
渋谷スクランブルの定点監視カメラで事足りるはずである。
移動ショットについて補足しよう。
クレーン、ドーリー、空撮、手持ちなど、
カメラ移動を伴うショットは、
映画の華でもある。
それは撮影の難易度が高いからである。
そういうものは見てるだけで面白かったりするので、
たとえばドローン空撮集なんて(しばらくは)ずっと見てられる。
それは、「普段見れないものが見れる」からだと思う。
超スローモーションやタイムラプスもそうだろう。
しかしそれらはガワの刺激に過ぎないので、そのうち飽きてくるのに気付くだろう。
これらのショットの、ストーリー上の意味は?
「変化」だ。
気持ちや状況や、文脈の変化を示すために、
これらは使われる。
もっとも簡単な変化は、場面移動だ。
「驚くが、気持ちを変えて決意する」なんて人物の気持ちの変化は、
ドーリーアップなどで表現されるだろう。
「お話が全て終わり、元の日常へ戻ってゆく」
ということすら、クレーンアップの「変化」ショットで表現されることが多いよね。
まとめよう。
映像を語るには、三種類のショットで十分だ。
ヒキ、○○サイズの○○のヨリ、
そして移動ショットだ。
ヒキとヨリは起こっていることのサイズで決まる。
変化をヒキとヨリでも語れるし、
移動ショットで語るオプションもある。
実はたったこれだけで、カット割りの全てを尽くせる。
特殊なカット割などない。
面白いストーリーに寄り添うのみである。
つまりは、映画はカットワークではなくストーリーだ。


趣味でイラストや稀に漫画も描くので、
通ずるところが多く参考になります。
漫画技法書では、
本記事で批判されていたコマ割りとショット
つまり「ハッタリ」の種類までしか記述がないことが多く、
>ヒキとは、「そこで起こっている最大広さ」だ。
>編集とは、「起こっていることを、随時的確なサイズで示す」
>ことに他ならない。
等、これ以上ないくらいに簡潔かつ実践的な説明はとても胸に響きました。
マンガだけでなく、イラストにおいても
「何が見せたいか」が明確にならないうちは筆をのせてはならない。
慣れないうちは、
デジタルならキャンバスサイズを決めずにのびのびと描き
必要な情報が映っている部分だけをトリミングして完成させる。
など活かせそうな点がたくさんあると感じました。
文章についても言えそうですね。
何かを説明するためには、小手先の話術ではなく、
説明対象のスケール(=ヒキ)を見極める目と、
相手の知識量にあわせて内容を省く(=ヨリ)の技術を磨く必要がある。
といった感じでしょうか(実践できている自信はありませんが)。
本文とは関係ないのですが
おぼつかないながらも、
薙刀式の日本語を指がしゃべる感覚が
ようやく掴めてきた気がします。
これからも新しい記事を楽しみにしております。
漫画のコマ割りは、そもそも漫画の父手塚が、
ハリウッド映画のカット割を真似して編み出したものなので、
通ずる部分があるのかもしれませんね。
(今では当たり前の文法すぎて、誰も意識してないのかもしれませんが)
プロの写真においても、
ちょっとルーズ目に撮っておいて、
仕上げでトリミングすることがよくあります。
僕はそれがずっと疑問で、
「何が起こるか決めて撮ってへんのかい」と、
ポスターチームのやり方によく首を傾げますね。
不必要なカメラの画素競争は、トリミングの為だったりしますね。
もちろん、わざと「起こっていることのサイズ」からずらすことも、
表現として成立します。
水墨画や金屏風の絵では、わざとそうしたトリミングも表現でした。
あくまでハズシは上級者向けということで、
まずは基本クリアが先だとは思います。
薙刀式はもう自分の指の一部みたいになってしまっているので、
「指が喋る? むしろ喋らないやつでよくタイピング出来るな。
なんという効率の悪さよ」と思ってしまいますね。