2020年07月19日

結局は何が書けていて、ほんとうには何を書くべきか

これさえはっきりわかれば、
リライトなど簡単である。

これが分からないから、リライトは迷路にはまる。


リライトの難しいところは、
「今あるそこに違和感がある」
という感覚を頼りにして、
表面的な直しばかりに終始して、
疲弊してしまうことである。

部分に囚われて、全体が崩れていくのである。

これは、
「鼻が気になるからちょこっと整形」
「そしたら目元が気になるからちょっと整形」
「そしたら顎が気になり…」
などを繰り返して、化物が出来上がる過程によく似ている。

もうひとつありがちなのは、
「できているところはそのままにしておいて、
弱点だけを改修できないか」
と考える弱い心理だ。

整形の例え話でいえば、
「なるべくプチ整形で済ませたい」
と考える心理に近い。

100万の整形、また100万の整形…
を繰り返して、何千万もかけて化物が出来上がるくらいなら、
1億と十分な時間をかけて、
土台ごと計画して工事したほうがよほど良い。

この、「最小のコストをかけて」
を繰り返す貧乏性で幸せになった人をぼくは知らない。

今で言えばGoToキャンペーンがそうだろうか。
随分前から決まっていただろうものを、
小手先だけで処理して、
大局的に大敗していると僕は思う。



さて、
ではどうすれば大局的な、正しい直しが出来るのだろう?

僕は、
「結局は何が書けているのか」
を書き出すところからやるべきだと思う。

それが間違っているなら、そこから修正だ。

そこは間違ってないならば、
「そのことを書くために、ベストの構成か」
をチェックすれば良い。
「すべての要素が、念入りに結論にたどり着くための、
よく練られた、必要十分な完璧なものになっているか」
をチェックすれば良い。

しかし大抵の場合、
「結局は何が書けているのか」
が物足りないのではないか?

というのが本題である。


それはテーマだろうし、
テーマに至る道筋だろうし、
テーマを語るための前提や前振りかも知れない。

その、
「結局は何が書けていたのか」
を正しく認識できない限り、
どう直すかなんて、すべて失敗した化物整形なのだ。


だから、
「ではどういうものが理想なのか」を書き出すのである。

ここまでは書けている。
理想はこうである。

現状とゴールを正しく設定するのだ。

あとは、その具体的手段を捻り出せばいい。


前提の設定を変えるのか。
伏線を変更するのか。
問題を変更するのか。
主人公の不足部分を改変するのか。
事件との出会い方を変えるのか。
陥るシチュエーションを変えるのか。
時系列を変えるのか。
フレーミングを変えるのか。
第一ターニングポイントを変えるのか。
仲間の登場や敵の順番を変えるのか。
エピソードを追加するのか。
エピソードを削るのか。
台詞を変えるのか。
今どう思ったかを変更するのか。
どうするつもりかを変更するのか。
ミッドポイントを変えるのか。
世界設定を変えるのか。
危険の度合いを変えるのか。
クライマックスを変えるのか。
何を争うかを変更するのか。
具体的なルートを変更するのか。
人物の出入りを変更するのか。
ラストシーンを変更するのか。
テーマを変更するのか。


色んな具体的手段があるが、
ゴールが見えているならば、
適切な手段を組み合わせられる。

問題は、現状認識と理想のゴールと、具体的手段がなく、
見た目の近視眼で「きになるところ」を直し続けることだろう。

「今これがいいから捨てたくない」もやめよう。
全体を良くするために、
ここがいまいちでも最終的には良くなる。



「ある複雑なものを良くしていく方法」は、
システム論として数学的に研究されている。
場当たり的な探索で、
少しずつ良くしていく方法では、
簡単に袋小路に陥り、
最大効果のゴールにたどり着きにくいことが知られている。
(局所最適問題)

最近はカナ配列を弄っているけど、
これも局所最適という袋小路で満足せず、
そうでないグローバル視点での解にたどり着くのが、
非常に困難な問題のひとつだ。
(AIによる計算でも、容易に袋小路で「最適化した!」
と勘違いすることが知られているよ)


こうした理系の学問を知らないと、
「部分的改善はいつか最高の状態に至る」
という無邪気な考えで終わってしまう。
「経路積分は全体積分を最適化しない」などとシステム論ではよく言う。
1円2円やポイントカードを争う主婦が、
旅行やホストに百万単位で散財することによく似ている。



要するに、
部分でなく全体が問題だと言うことだ。

三週間寝かせて客観的になったあと、
最初にすることはつねに、
全体がよくなるにはどうすればいいか、
引いて見ることである。

部分の気になるところは、
全体が気にならなくなってから着手すればよく、
全体が完璧なら部分に傷があっても、僕は良いと思う。

我々は神ではない。
部分も全体も完璧は作れない立場に立てば、
全体を良くしたほうがいいに決まってるのだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:22| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。