津波をイメージするといい。
僕らは3.11に出会う前、
津波というのはザパーンって一回だけ来る波のようだと思い込んでいた。
実際の津波は、水の塊が押し寄せることだった。
感動というのは、この押し寄せる塊の量で決まる。
それは、泣けるシチュエーションを作って、
泣ける音楽を流せば済むのだろうか。
たしかにジェリーブラッカイマーはアルマゲドンでそうした手法を完成し、
泣くことは条件反射である、
などのように定式化した。
やってみればわかるが、
人々のスローモーションに、
ピアノを流すと大体泣ける。
感動は定式化できる、などと言われることがよくある。
しかしこれは、あくまで安い「泣ける」である。
津波に抱いていた、我々の「一回ザパーンときておしまい」
のイメージのほうだ。
ほんとうの感動というのは、
蓄積した何かの量で決まる。
これまでのこと全てがその感動に詰まっている。
ずっとやってきたそのこと全てがその感動へ集約する。
少しでも失敗すればダメだったものが、
ここまで繋いで初めて成功に繋がった。
そうした、
積分して蓄積した、体積の量があるものが、
止まることなく押し寄せ続けない限り、
ほんとうの感動には至らないと思う。
泣ける場面を真似して書いてみればいい。
その場面は泣けるが、
それは条件反射の泣きであることに気づくだろう。
人が飯をうまそうに食ってたら自分も腹が減ってくるのと、
同じ原理に過ぎない。(深夜の飯テロも同様)
物語の感動は、そういうことではない。
最初から最後まで積み上げてきたものの体積に、
比例する。
また、
状況が負から正に変わるとき、
どん底と頂点の落差が大きいほうが感動値が高い。
ジェットコースターと同じで、
楽さがあればあるほど、感情は揺さぶられる。
「ちょっといいことをして感謝されてプチ感動」
だとしたら、
「人類を救い、英雄になって功績を称えられる」
までやったほうが、
振り幅の体積が大きいわけである。
また、感動の体積は、おおむね尺(本編の長さ)に比例する。
もちろん、
スカスカの三時間映画よりも濃密な二時間映画のほうが濃い感動になるが、
一般的な傾向の話だ。
良くできたインド映画の満足感がひたすら高いのも、
この尺に練り込められたストーリーの体積が大きいからだと思う。
(「ダンガル」とか「きっと、うまくいく」の、
濃いい体積よ!)
落差、長さ、体積。
これらをひっくるめて、
僕は津波のイメージで感動を見ている。
全てが押し流されて、一旦平地になってしまう
(僕らの感情が)のも、津波に似てる気がする。
2020年07月20日
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