あるストーリーを書いているとき、
あなたの場所はどこにあるか。
「それをしている人物の中から見ている」か、
それとも
「それをしている人物の外から眺めている」か。
前者を一人称、後者を三人称ということは、
教科書的には知っていることだろう。
主観と客観という言葉でも分けたりする。
そして、映画シナリオというのは全面的に客観のメディアで、
小説は、主観と客観を使い分けたりできるメディアだ。
あなたは「書いている」とき、
どこにいるのか?
主観の位置だろうか? 客観の位置だろうか?
どちらもあると思う。
というか、その混同こそが、「書いている」という行為だと思うのだ。
客観的にはその架空の人物が何かをしているさまを、
主観的にまるで自分の体験のように、
「混同する」ことが、物語体験ということだ。
それを混同しながら書いているということは、
臨場感にみちた、混雑した体験であることが予想される。
で。
書いているときはそうだとしても、
観客が鑑賞するときはまた別だ、
というのが本題。
観客はまったく外の世界からやってくる。
まったく別の住人を、檻の外から眺める、
動物園の客と同じ位置である。
その観客が、いつの間にか、
檻の中にいるような感覚に引き込むことが、
物語である。
(事情、目的、行動、感情移入などによって)
そして、
全てが終わったときに、
檻の中にいたことを思い起こさせて、
檻からもといた別の世界に戻っていかせることが、
物語である。
(事件の終結、それが意味するテーマの暗示、
イコンになる場面を記憶することによって)
勿論、
あなたが書いているまさにその瞬間に、
そこまで計算しながら書いていくならば、
それは最高だ。
しかし現実はそうではない。
書いているとき、
その人物がすることに夢中になっていて、
その人物がどう見えているか、には、
なかなか注意が向かないものなのだ。
つまり、主観に夢中になっているがゆえに、
客観まで手が届いていないのが、
執筆というものである。
勿論、それだけ必死で書かれたものは、
なにかしらのエネルギーに満ちているので、
創作物としての価値がある。
だから、のめりこんで書いていくこと自体は否定しないし、
そうあるべきだとすら思う。
問題は、
それをあとあと冷静に見れるかどうかということ。
つまりリライトだ。
執筆時に夢中で書いたものは、
あなたが面白いだけで、
他人が観察する檻の中として、面白いとは限らない。
また、あなたがいまいちだと思っている部分が、
檻の外から見て面白いという可能性もある。
(主観的ずれがギャグになるお笑いはよくあるよね)
それを冷静に分析できるのは、
リライトの時しかない。
執筆は、「鉄は熱いうちに打て」の感覚で、
とにかく書いていくことだけの勝負だ。
しかしリライトは冷静になり、
「その行為をどう見せるか」に重きを置くべきだ。
することが面白い/つまらないのではなく、
見ることが面白い/つまらない
という軸で評価し、書きなおすべきなのだ。
主観を客観で評価し、
客観からいつのまにか主観になるようにコントロールし、
主観が終わったら、また客観に戻ってくるようにする。
それが、リライトでやるべき動線の理想だ。
あなたが叩きつけた情熱は、
まだその理想的な形になっていない。
ブレがあるし、思い込みも強いだろう。
それを冷静に整えて、
情熱がより爆発するように準備する。
その周到さこそが、冷静と情熱の間というものだ。
執筆しているときにそこまで考える余裕などない。
あったとしたら、あんまりおもしろくないパートだろう。
もっと夢中になって書け。
あとから冷静になって、
その夢中にどうやったら観客を引き込めるか、
うまいやり方を考え付くんだ。
ブレがあれば修正し、
のめりこみへの階梯をつくり、
徐々に、あるいはいきなり引き込み、
夢中でその嵐に振り回されるような、
導線をつくるのがよいだろう。
あとでそれはやればいい。
今は夢中になるだけだ。
登場人物の中から世界を眺め、
その気分で書いていこう。
それは非常に疲れる。
書き終えられたら、
あとでその冒険とはなんだったか整理して、
「それはどのように見られるのがマックス面白くなるのか」を考えよう。
両方がないと、物語としては面白くない。
主観がないと夢中がない。
客観がないと足場がない。
2020年07月21日
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