ガワにおいても、中身においてもだ。
ガワにおける危機とは、
「今この崖を飛び越えなくてはならない」である。
たとえば、
「宇宙人の侵略」は、
宇宙人という概念がある前にはなかった、
発明された当時は新しい危機であった。
実際には「他民族からの侵略」のアナロジーで考えられたのだろうが、
そこで起こったことは、
「かつての敵との団結」という新しい展開であろう。
サイヤ人の襲来には、ピッコロと共闘するわけだ。
逆に、ピッコロと共闘するために、
「宇宙人の侵略」というのは、
一種の危機の発明であったわけだ。
大きな例でなくても、小さい危機は発明され続けている。
ケータイが出来る前にはなかった、
「電波が途切れる」
「バッテリーがない」
「スマホに頼りすぎていて、
地図も電話帳もそこに入ってるので、
失くしたら何もできない」
「指紋認証や顔認証を突破するスパイ」
は、
新しい危機である。
あるいは、
「スポンサーに配慮して、
Twitterで通り一遍しか言わない言葉」
というのも、新しい危機だろう。
言論の自由が、炎上という刃物に負けている。
「裏アカ留出」も新しい危機だ。
大体、新しい危機は、
「新しい常識」に起きることが多い。
テクノロジーが発展するにつれて、
今後自動運転やキャッシュレスで、
何か新しい危機が発見されるだろう。
「怪談は、新しい生活習慣に起こりやすい」
という考え方がある。
口裂け女は、「塾帰り」という新しい生活習慣で広まった怪談だし、
「引っ越した家」にまつわる怪談は数多い。
それだけ人は、新しい習慣にはストレスと恐怖を感じるのだろう。
コロナの新生活様式にも、怪談はあるかもね。
「アルコール除菌には○○が混ぜられていて…」
なんかは既にありそうだね。
ガワの危機とは、
すなわちビジュアルの新表現を探ることだ。
新しい危機を考える時、ビジュアルから入るのは、
発想としてあり得る。
これは、何かと何かを組み合わせることでも可能で、
カイジの「鉄骨渡り」は、そうした作例のひとつだろう。
「カイジ」は、大体新しい危機を、ビッグビジュアルで持ってくるのが得意で、
発想の分解にはもってこいだ。
「日常微妙にムカついている小さなこと」
を持ってくるのも良い。
「あそこからあそこまで、大概信号が繋がらない」
のはよくあるムカつきだけど、
「繋がらないと死ぬ」危機を作ったり、
「たまたま繋がったことで死んだ」
などを作ることで、事を大きく出来たりする。
観察力や組み合わせ力次第で、
これはいくらでも考えられるだろう。
「ちょっと危機がつまんねえな、
別のを考えるか」などと交換もたやすいと思う。
一方、「中身の危機」を新しく考えることは難しい。
基本的には死に繋がることはすべて危機である。
仕事を失う、
社会的信用を失う、
寝れない、
食えない、
怪我や病気、
振られる、
自信を失う、
味方を失う、
などなどだ。
これらは、昔から変わらないものだろう。
でも最近の「炎上によって信用を失う」
というのは、
ガワも中身も新しい危機かもしれない。
ネットがない時代は、
こんなに敏速に広まることはなかったし、
人の噂も75日で飽きられていたはずだ。
(この、いつまでも残って消えないことが、
人類の進歩を遅くしているのではないかと僕は考えているが、
ここでは深入りしない)
ここにもし、新しい危機の発明があれば、
僕は名作の可能性があると考えている。
出来ればガワも新しくなるのが理想で、
「そんな危機を乗り越えなきゃいけないの?」
という驚きと興味があるのが、
いいと思う。
新しいガワの危機で興味や関心をもち、
「実はこのような中身の危機の話だったのか」
と深い感動が訪れるのが、
理想ではないかと考えている。
それは、いったいどのようなもので書かれるべきか、
表をつくるとよい。
ガワの危機: ○○○○
中身の危機: ○○○○
という形式で書かれるだろう。
その組み合わせが新しいだけでも発明かもしれない。
他の名作はどうしているか、
自分のストーリーはどうか、
何が新しいか、
吟味することで、
発見があると思う。
2020年07月22日
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