よく僕が例に出すのは、
「修学旅行でパンツ忘れるやつは必ずいる」
ということ。
あなたの書く表現が、100%の人に理解される、
と思っているならば、
あなたは表現に関してまだ素人だ。
100%受け入れられないことくらいは分っていると思う。
半分は反対し、半分は賛成するだろう、
などと予想していて、あとは%の違いだけだろう、
と思っていることと思う。
(あなたの主張が100%受け入れられ、
絶賛されると思っているならば、
表現をすることはあきらめたほうが良い)
問題は、
100%理解されることなどほぼないということを、
覚悟することである。
つまり誤解されたまま賛成されたり、反対されるという事である。
100%理解されて、賛成されたり反対されたりするならば、
しょうがないとあきらめもつくものの、
現実には、誤解されたまま判断されるのである。
ではどうすればいいか?
下手な人は、
「誤解されないように、はっきり書く」
などと思い込む。
「ほら、ここにはっきり書いてあるよ!」
などのようにする。
これは国語の間違った教育の成果である。
国語は、
物語の読解と、論説文の読解は、
分けて教えるべきだと思う。
論説文、たとえば契約書や解説文などでは、
「ここにこれが書いてある」ことをきちんと読めれば、
誤解することなどほとんどないし、
書いていないことを把握していないリスクを軽減できるから、
客観テストは意味がある。
「どこにそれが書いてあるか、見つける練習」をしようということだからだ。
しかし、物語はそうではない。
直接話法での論説文に対して、
間接話法で物事は進むからだ。
「私はこう思うから、こう行動するぞ」
が直接書いてある物語などない。
「私は実はこうだったのだが、まだ誰も気づいていない」
などと直接書く物語などない。
「今彼は彼女が65くらい好きだ」
などと直接書く物語などない。
「作者はこういいたかったのだ」と
テーマが直接書いている物語などない。
これらは全て間接話法で書くものだからだ。
つまり、世界はほぼ間接話法でできている。
物語はそれを忠実に書写している。
関節話法でできているからこそ、
重要な、契約や論文は、直接話法で明示する。
国語の客観的読解力は、それを訓練するに過ぎない。
しかし直接話法にばかり注力した結果、
間接話法がおろそかになっている。
たとえば最近話題の?京都弁。
「おたくのお子さん、ピアノうまくなりはりましたなあ」
は「毎日毎日うるせえから静かにしろ」の、
間接話法である。
(国語的にいうと、婉曲表現)
「ええ時計してはりますなあ」は、
「時間かかりすぎなのに気づいてないのかボケ」
という意味の間接話法である。
また、京都弁を、
必ずその意味でいうと誤解しているバカもいる。
ほんとにピアノが上手くなったという会話もあるし、
いい時計だなあという会話もある。
問題は文脈で、
「なぜそこでその言葉を発するのか、
それはそこで言われたからには、
このような意味だろう」
という推測があるかないかだ。
これまでずっとしょうもない話を営業マンがしていれば、
「ええ時計してはりますなあ。
さぞこのトークで儲けてはりますのやな」
と言えば、
嫌味だということくらいわかりそうなものだ。
これまた優秀な営業マンならば、
「実はたいして儲かってないのですよ。
ホレ、この時計ずれてるし」
と謙遜しながら話を切り上げるはずである。
表面的には穏やかな会話ではあるものの、
両者「二度とねえな」と思っているわけである。
こうした、間接話法がうまく使えていないならば、
物語を書く力は低いと僕は思う。
こうした文脈をどれだけ作れるか、
ということが、物語力であると思う。
だから、
「誤解が起こっていそうだから、
はっきりとわかるように直接話法で書こう」
と思うのは、下手なのだ。
「時間かかりすぎや。そろそろ切り上げてくれなはれ」
と言わせることと同じだ。
京都人はそんなことを直接言わない。角が立つからだ。
それでは、「顔でニコニコしながら腹黒い」
がなくなってしまうではないか。
つまり物語の間接話法の面白さを捨てることになってしまう。
誤解は必ず起こる。
それを前提に考えたとき、
ではそれを減らすのはどうすればよいか。
間接話法を増やせばよいのだ。
それは、その場面の間接度を上げるのではなく、
他の「関連する間接場面を増やす」ことをすればよい。
時計の話を前振りしておいたとしたら、
あとの場面で、
「あの人、時計の話しかおもろくなかったわ」
と誰かに愚痴らせればよいのだ。
このことで、
前の場面は、時計に興味があるのではなく、
話が退屈であったことがわかるわけだ。
人間は直接話法を使わない。
角が立つからだ。
(ツイッターではバカな人たちが、
直接話法で強くなった錯覚に陥っているさまをよく観察できる)
だから間接話法を沢山使って、
間接に間接を重ねていくとよい。
だいたい、ふわっとこういうことなのだろう、
ということをわかるようにしていくのである。
勿論、矛盾や漏れがあるべきではない。
それはさらに下手なやつのすることだ。
誤解は必ずある。
時計の話でいえば、
時間ではなく時計の話と誤解することだ。
「それでもいい」と割り切ることが、
表現者のするべきことだ。
一回は誤解があるかもしれない。
しかし、それを重ねていくと、
「この人はこの人を嫌っている」がわかるようにしていく。
何回やればいいとか、客観的な基準はない。
全てはニュアンスの問題だ。
一定数誤解はある。
それがゼロになることはない。
私は誤解されているし、
あなたも誤解されている。
完璧な相互理解などない。
だから、
少なくともこれだけは確かだということを、
繰り返すしかない。
同じ表現はつまらないから、
異なる方向から、
同じことを何度も描くのだ。
似たようなことを違う角度から描いていれば、
それは重要なことだと、
間接的にわかる。
それ以外は、多少の誤解があってもいいだろう。
大事なことさえ伝わればいいのだ。
どうせあなたは、
世の中の大量の情報の、すべてを完璧に誤解なく理解して、
すべてを正しく格納してはいないのだ。
大事なことさえ伝わっていれば、それでよい。
枝葉末節の揚げ足を取って、
どうでもよい議論をするのは、
ディベートのテクニックだ。
間接的な会話を直接的客観的会話に持ち込む、ずるいやり方だ。
「人間は正しく言葉を使えない」
という立場に立ち、
「言葉の使い方はあれだが、
こういうことを言おうとしているのだ」
ということで議論するべきだ。
つまり、揚げ足を取るやり方は、敵なのだ。
敵意には敵意で対抗するしかない。
味方には味方で対応すればよい。
誤解はある。
少しずつ、間接的に解いていけばよい。
2020年07月25日
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