2020年07月23日

崖っぷちに立て

物語というのは、
他人の危機を、安全なところから見て楽しむ見世物である。


観客は安全なところにいる。
ジェットコースターに乗りながら見るものではなく、
ふかふかの椅子で脅かされない保証のあるところで、
見るものだ。
だから、自分は安全なところから見ているという安心感がある。

だからこそ、フィクションの物語の主人公は、
危険に陥るものだ。

安全なところから見るものが、
安全だったら、何も面白くないからだ。

観客は安全だからこそ、
危険ぎりぎりを見ていたいのである。


安全運転よりも、ワイルドスピードだ。
握手よりも、カンフーバトルだ。
安心に会社に行くよりも、社会的生命を失いかねない事件だ。
地球は平常運行よりも、滅亡の危機だ。

フィクションが毎回そうなるのは、
観客の環境の反対だからである。
まずそれを忘れてはいけない。
(逆に、戦場で見るものは、愛する人の平和な写真だろう。
人間は常に「ここにないもの」をみたがる)


だから、
主人公はつねに崖っぷちにいるべきだ。

安全な椅子から見て、
危ない、落ちそうだ、とハラハラする、崖っぷちにいるべきである。


落ちてしまっては話がおしまいになるので、
落ちそうだが、落ちない、ぎりぎりの面白い話にしなければならない。

どうせ落ちないんだろ?という疑惑も、
うまくかわさなくてはならない。
それは、実際に落ちることを含むということ。

崖から落ちたら死ぬので、
会社が倒産するとか、信用を失うとか、
裏切られるとか、
別の「崖からの転落」をつくって、
崖っぷちからは落ちることがある、
ということを描くべきだ。


あなたが執筆するとき、
安全な椅子に座って書いているだろう。
だから、安全なことに振られがちだと思う。

自分が危険な環境に置かれることが好きな人はいない。
(危険遺伝子を持つ外人は、スカイダイビングしたりするが)
だから、ついつい、主人公をセーフティに置いてしまいがちだ。

それでは崖っぷちにならない。

もっとぎりぎりにいることだ。
それはつねに、アドレナリンを出していないといけないのだ。

安心、安全のエンドルフィンではない。
危険が迫っていることへの緊張である、
アドレナリンを出さないといけない。

アドレナリンが出ないものは、
物語ではない、
とすら定義できるかもしれない。


(逆に、日常系といわれる作品は、
エンドルフィンを出して、脳を安定させるためにあると思われる。
「萌え」という感情や、猫動画に感じる感情は、
エンドルフィンを出して、
不安定な脳を安定させようとしている無意識が働いている。
美少女のキャッキャをずっと見ていたいとか、
美少年同士のイチャイチャを見ていたい需要などは、
ざっくりいえば不安定な人の安定剤だ)


見世物は、アドレナリンが出てなんぼだ。
燃えるものになっていないと意味がない。

ハリウッド映画は、そうしたものの宝庫である。
悪と正義をどう違うパターンで描くか、
漫画的なものからリアリティのあるものまで。
敵はどういう新しさがあるか。
そこに燃える瞬間があり、
クライマックスで爆発するように仕掛けられている。

日本映画は、
そこまでアドレナリンを認識していないかもしれない。
何もそこまでやらなくてもいいだろ、と思っているかもしれない。
しかしながら、
崖っぷちに立ち続けることも、
考えていないかもしれない。
だから、退屈なのかもしれない。


主人公が安心しているな、と思ったら、
あるいは、今書き手の自分が安心しているな、
と気づいたら、
どんどん崖っぷちに追い込め。
崖っぷちにいる自分を、
観客はハラハラしてみているのだと思いなさい。

一種のマゾゲーであると考えてもいい。
あえて崖っぷちに追い込んで、
落ちそうになったり、時に落ちたりしながら、
最後の最後まで、
崖っぷちに居続けるのが、
良く出来た物語であると言えるだろう。

安心、安全は、ラストのみ。
何かが始まったら、
ずっと崖っぷちにいる。

あなたがそのプレッシャーに耐えられなくなるときも来る。
しかし観客は、ボルテージをどんどん上げてほしい。
そのチキンレースを、
ずっとやらなくてはならない。
posted by おおおかとしひこ at 00:11| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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