物語というのは、
他人の危機を、安全なところから見て楽しむ見世物である。
観客は安全なところにいる。
ジェットコースターに乗りながら見るものではなく、
ふかふかの椅子で脅かされない保証のあるところで、
見るものだ。
だから、自分は安全なところから見ているという安心感がある。
だからこそ、フィクションの物語の主人公は、
危険に陥るものだ。
安全なところから見るものが、
安全だったら、何も面白くないからだ。
観客は安全だからこそ、
危険ぎりぎりを見ていたいのである。
安全運転よりも、ワイルドスピードだ。
握手よりも、カンフーバトルだ。
安心に会社に行くよりも、社会的生命を失いかねない事件だ。
地球は平常運行よりも、滅亡の危機だ。
フィクションが毎回そうなるのは、
観客の環境の反対だからである。
まずそれを忘れてはいけない。
(逆に、戦場で見るものは、愛する人の平和な写真だろう。
人間は常に「ここにないもの」をみたがる)
だから、
主人公はつねに崖っぷちにいるべきだ。
安全な椅子から見て、
危ない、落ちそうだ、とハラハラする、崖っぷちにいるべきである。
落ちてしまっては話がおしまいになるので、
落ちそうだが、落ちない、ぎりぎりの面白い話にしなければならない。
どうせ落ちないんだろ?という疑惑も、
うまくかわさなくてはならない。
それは、実際に落ちることを含むということ。
崖から落ちたら死ぬので、
会社が倒産するとか、信用を失うとか、
裏切られるとか、
別の「崖からの転落」をつくって、
崖っぷちからは落ちることがある、
ということを描くべきだ。
あなたが執筆するとき、
安全な椅子に座って書いているだろう。
だから、安全なことに振られがちだと思う。
自分が危険な環境に置かれることが好きな人はいない。
(危険遺伝子を持つ外人は、スカイダイビングしたりするが)
だから、ついつい、主人公をセーフティに置いてしまいがちだ。
それでは崖っぷちにならない。
もっとぎりぎりにいることだ。
それはつねに、アドレナリンを出していないといけないのだ。
安心、安全のエンドルフィンではない。
危険が迫っていることへの緊張である、
アドレナリンを出さないといけない。
アドレナリンが出ないものは、
物語ではない、
とすら定義できるかもしれない。
(逆に、日常系といわれる作品は、
エンドルフィンを出して、脳を安定させるためにあると思われる。
「萌え」という感情や、猫動画に感じる感情は、
エンドルフィンを出して、
不安定な脳を安定させようとしている無意識が働いている。
美少女のキャッキャをずっと見ていたいとか、
美少年同士のイチャイチャを見ていたい需要などは、
ざっくりいえば不安定な人の安定剤だ)
見世物は、アドレナリンが出てなんぼだ。
燃えるものになっていないと意味がない。
ハリウッド映画は、そうしたものの宝庫である。
悪と正義をどう違うパターンで描くか、
漫画的なものからリアリティのあるものまで。
敵はどういう新しさがあるか。
そこに燃える瞬間があり、
クライマックスで爆発するように仕掛けられている。
日本映画は、
そこまでアドレナリンを認識していないかもしれない。
何もそこまでやらなくてもいいだろ、と思っているかもしれない。
しかしながら、
崖っぷちに立ち続けることも、
考えていないかもしれない。
だから、退屈なのかもしれない。
主人公が安心しているな、と思ったら、
あるいは、今書き手の自分が安心しているな、
と気づいたら、
どんどん崖っぷちに追い込め。
崖っぷちにいる自分を、
観客はハラハラしてみているのだと思いなさい。
一種のマゾゲーであると考えてもいい。
あえて崖っぷちに追い込んで、
落ちそうになったり、時に落ちたりしながら、
最後の最後まで、
崖っぷちに居続けるのが、
良く出来た物語であると言えるだろう。
安心、安全は、ラストのみ。
何かが始まったら、
ずっと崖っぷちにいる。
あなたがそのプレッシャーに耐えられなくなるときも来る。
しかし観客は、ボルテージをどんどん上げてほしい。
そのチキンレースを、
ずっとやらなくてはならない。
2020年07月23日
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