手書きしかなかったころ、
出会った知らなかった漢字を、手書きで練習していたよね。
最近、それをほとんどしていなくない?
これはこういう字を書くのか、書けるように練習しておこう、
他にこういう言葉にも使われているから、
それも書けるようにしておこう。
そうやって、自分の中は豊かになっていった。
知っている言葉がどんどん増えて、
あることとあることの間の言葉がどんどん増えて、
微妙なニュアンスを表現できるようになっていった。
今もそうだろうか。
デジタルネイティブの人は、
新しく知った漢字を、そのへんの紙に練習して、
自分を豊かにする練習をしているだろうか。
たぶんしていないのではないかな。
言葉が外部記憶になりつつある。
変換を使わないと、何も書けない人になっている。
口でいうとき、漢字を発音するのか、
ひらがなを発音するのかは、
IQによってだいぶ違いそうだ。
「ひらがなではこういうが、漢字ではこうなのか」
を知ることは、言葉を豊かにすることだ。
僕は頭の中で漢字で出てくるので、
それを発音するならば、そう口に出す、
という方式で生きているので、
概念はすべて漢字変換済みで収録されている。
そうじゃないと、手書きでずっと書いていけないよね。
カナ配列薙刀式で、「奇跡的」という言葉を初めて打った。
WAWEWというわりと打ちづらい運指だったので、
何度か練習して、スムーズに打てるようになった。
で、気づいた。
最近こんなことしてないなと。
ある言葉を知るとき、
読めるようにしているだけのような気がする。
自分の中に新しい言葉を入れていない気がする。
言葉を外部に頼るようになったら、
人間は何もないときに何もできない生き物になる。
つまりバカになる。
デジタルは人を幸せにしているか?
学ぼうとする人の役には立っているが、
バカをよりバカにすることにも役に立っている。
ツイッターがバカ発見器と言われるように、
言葉を書くときに、
その人がバカかどうかをあぶりだせるかもしれない。
単純に言うと、
上を目指さなくなったとき、
人はバカになると思う。
2020年07月25日
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