適当に慣れてくると、玄人臭が生まれてしまう。
プロっぽさとか、職人技とかだ。
それはダメだ。
物語は、つねに初心者であるべきだ。
なぜなら、人は、人生の初体験者だからだ。
手慣れてくることは大事で、
プロットをより早く組めるようになったり、
含意をうまく使えるようになったり、
セリフがキレッキレになったり、
センスよく運ぶことが出来たり、
視線誘導をうまくやって、ネタバレしないようにできたり、
どんでん返しのタイミングがうまくはまったり、
複数のプロットを自在に扱えるようになったりすること、
などなどなどは、
とても大事である。
これは、素人にはできないストーリー作りであり、
ただの日記レベルのものからしたら、
遥か天空レベルにある、
きちんとしたものだろう。
職人は図面を無駄なく引き、
緻密な計算をして、
その通りにうまく書くことができていく。
それはそれでやっていくべきことだ。
技術があがれば、それまで書けなかったことが書けるようになる。
実力は広く深くなるだろう。
しかし、その時に忘れがちなことは、
初心者的な反応である。
誰もがそのストーリーを初体験する、
ということを忘れてはならない。
観客はもちろんのこと、
登場人物全員が、だ。
リライトを重ねれば重ねるほど、
それを忘れてしまう瞬間がやってくる。
作者が初体験でなくなっていき、
新鮮さが失われ、
何バージョンも作った結果、
今はない前のバージョン前提のストーリーになっていたりすることは、
よくあるものだ。
それが何周か人生をループしている物語でない限り、
登場人物も、観客も、
いまそこで起こっていることは、初体験である。
だから、その最もビビッドな、
その気持ちをうまく書けなければならない。
リライトを何度もしてしまうと、
それが新鮮でなくなり、おざなりな描き方になってしまうことがよくある。
作者が飽きてしまったりしていることもある。
(最近業界では、よく、「こする」という。
こすられたレコードのように、
新鮮さがなくなってしまっているということだ)
それはリライトが下手な証拠だ。
何度書いたとしても、
それが初体験であるわけだ。
驚き、怖がり、好奇心があり、
興味を持ち、人生と引き換えにし、
何かを犠牲にし、
自分の安全圏でないことへの反応は、
つねにビビッドである。
それを忘れてはならない。
誰もが人生の初心者であり、
これは初めての体験であることを。
達者な役者はこれが上手である。
何テイク撮っても、
それが初めてであるかのように芝居する。
下手な役者は、
「新鮮さが失われるから、一回しか芝居しない」
なんて言ったりする。
それは単純に動物として反応しているだけで、
「その反応を毎回コントロールして、
初めてのふりをする」
という演技の技能に欠けている証拠だと言ってもよい。
志村はどんなに毎回「志村うしろー!」と言われても、
後ろに気づいていない、冒険に初めての人を演じていた。
分っていても、もしほんとうに気づいてないのだとしたら、
などと心配したものだ。
その虚実の間が、物語というものだ。
それが脚本に書いてないなら、
演じることさえできない。
初めてそれに出会うこと。
初めてそれを体験すること。
その新鮮さは、
どんなに何回書きなおしても、
初々しさといくばくかの恐怖と、
戸惑いと好奇心と虚栄心で満ちているはずだ。
毎回、彼女の手を初めて握った童貞のころを思い出せ。
どんな場面でも、
そのように人は生きている。
2020年07月26日
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