2020年07月26日

もっと初心者のように

適当に慣れてくると、玄人臭が生まれてしまう。
プロっぽさとか、職人技とかだ。
それはダメだ。
物語は、つねに初心者であるべきだ。
なぜなら、人は、人生の初体験者だからだ。


手慣れてくることは大事で、
プロットをより早く組めるようになったり、
含意をうまく使えるようになったり、
セリフがキレッキレになったり、
センスよく運ぶことが出来たり、
視線誘導をうまくやって、ネタバレしないようにできたり、
どんでん返しのタイミングがうまくはまったり、
複数のプロットを自在に扱えるようになったりすること、
などなどなどは、
とても大事である。

これは、素人にはできないストーリー作りであり、
ただの日記レベルのものからしたら、
遥か天空レベルにある、
きちんとしたものだろう。

職人は図面を無駄なく引き、
緻密な計算をして、
その通りにうまく書くことができていく。

それはそれでやっていくべきことだ。
技術があがれば、それまで書けなかったことが書けるようになる。
実力は広く深くなるだろう。

しかし、その時に忘れがちなことは、
初心者的な反応である。

誰もがそのストーリーを初体験する、
ということを忘れてはならない。
観客はもちろんのこと、
登場人物全員が、だ。

リライトを重ねれば重ねるほど、
それを忘れてしまう瞬間がやってくる。
作者が初体験でなくなっていき、
新鮮さが失われ、
何バージョンも作った結果、
今はない前のバージョン前提のストーリーになっていたりすることは、
よくあるものだ。

それが何周か人生をループしている物語でない限り、
登場人物も、観客も、
いまそこで起こっていることは、初体験である。

だから、その最もビビッドな、
その気持ちをうまく書けなければならない。

リライトを何度もしてしまうと、
それが新鮮でなくなり、おざなりな描き方になってしまうことがよくある。
作者が飽きてしまったりしていることもある。
(最近業界では、よく、「こする」という。
こすられたレコードのように、
新鮮さがなくなってしまっているということだ)

それはリライトが下手な証拠だ。

何度書いたとしても、
それが初体験であるわけだ。
驚き、怖がり、好奇心があり、
興味を持ち、人生と引き換えにし、
何かを犠牲にし、
自分の安全圏でないことへの反応は、
つねにビビッドである。

それを忘れてはならない。
誰もが人生の初心者であり、
これは初めての体験であることを。


達者な役者はこれが上手である。
何テイク撮っても、
それが初めてであるかのように芝居する。

下手な役者は、
「新鮮さが失われるから、一回しか芝居しない」
なんて言ったりする。
それは単純に動物として反応しているだけで、
「その反応を毎回コントロールして、
初めてのふりをする」
という演技の技能に欠けている証拠だと言ってもよい。

志村はどんなに毎回「志村うしろー!」と言われても、
後ろに気づいていない、冒険に初めての人を演じていた。
分っていても、もしほんとうに気づいてないのだとしたら、
などと心配したものだ。
その虚実の間が、物語というものだ。

それが脚本に書いてないなら、
演じることさえできない。

初めてそれに出会うこと。
初めてそれを体験すること。
その新鮮さは、
どんなに何回書きなおしても、
初々しさといくばくかの恐怖と、
戸惑いと好奇心と虚栄心で満ちているはずだ。

毎回、彼女の手を初めて握った童貞のころを思い出せ。
どんな場面でも、
そのように人は生きている。
posted by おおおかとしひこ at 00:32| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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