執筆はまるで夢の中にいるようだ。
夢中で、そればかり考えて、
他のことに気づかない。
リライトは、それを現実の側からチェックする。
夢の中では、
突飛な行動や判断でも自然なものだ。
常識で考えれば、かなりおかしなことでも通る。
まあ、だから夢なのだ。
その常識のタガが外れたところが、
夢の中の魅力だといってもよいだろう。
しかし、夢から覚めたときに、
そんなあほな、所詮は夢だなあ、
などと思うように、
執筆の夢中から覚めたあと、
自分の作品を見ると、
そんなあほな、所詮はオレの才能レベルは、
などと思ってしまうことがある。
これは、夢の中のことを、現実の基準で評価してしまうことによる誤りである。
では、夢の中の住人でいるべきなのか?
それでは地に足がついていない、
へんてこなもので終わってしまう。
そうではなく、
「その夢のルール内で、現実的な基準をつくる」
をやるのである。
フィクションとは、そのルールのことである。
人が生き返ることは現実ではないが、
フィクションではあり得る。
それは、そのフィクション内でルールを決めていれば、
その範囲内では何をしても良いのだ。
作品によるが、
「一時間まで」とか、
「記憶はなくす」とか、
「一回までしか生き返れない」とか、
「生まれ変わらない」とか、
色々あるだろう。
完全に生き返ることはまれで、ルールの範囲を狭くすることでより面白くしようという工夫が見られると思う。
それは、現実の側から見た判断だ。
まったくの夢物語にせずに、
「そういうルール内で想像を膨らませる、
フィクションという決まり事」
を、現実の側から作りこむのだ。
逆に、「その範囲内ならば、どんな夢を見ても構わない」
というルールにしてまうのだ。
夢だけでは地に足がついていない、ただの周りが見えていないものになる。
現実だけでは、夢想の面白さがなくなる。
だから、リライトで、
「フィクションのルール内の面白さ」に、
より落とし込んでいくとよい。
ある制限された条件下で、
私たちは夢を見る。
それがフィクションという娯楽である。
無制限ならば、ただの夢だ。
宗教家にでもなればよい。
現実の制限内でしかないなら、ノンフィクションをやっていればいい。
政治家やジャーナリストになればよい。
我々は、とある制限をうつつの感覚で作りこみ、
その中で夢を見て、
みんなをそこに巻き込んで楽しませる、
特別な夢の案内人である。
ただのビューティフルドリーマーでもなく、
ただの現実主義者でもない。
それがフィクションだ。
それを作りこむコツは、
まず執筆で十二分に夢を見て、
ふわふわしたものを作り、
リライトでそれを観察して、
フィクションに落とし込むことである。
もちろん、フィクションとしての夢が足りなければ、
意図的に夢を見て、さらに書き込みを深くしていくべきだろう。
夢とうつつは、両輪である。
2020年07月27日
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