頻度や量が甚だしいこと。
それ以外は何?
「すごい映画」ってなんだ?
すごい良かったということだ。
すごい感動したということだ。
それは、深いということだ。
薄くてぺらっぺらの映画はすごくはない。
すごい映画を作りたいのはやまやまだけど、
量や頻度がすごい映画をつくってもしょうがない。
すごい火薬の量のアクション映画や、
すごいカワイイ子が出ている恋愛映画や、
5分に1回のアクションがある映画や、
なんとかグループ総出演の映画や、
めったにカメラが入れないところで撮影された映画は、
なにもすごくはない。
量や頻度がすごいだけだ。
それは、ガワのすごさだと言えよう。
じゃあ中身のすごさってなんだろう。
量や頻度ではないだろう。
伏線の数を数えてもしょうがない。
移動距離や場面転換の数を数えてもしょうがない。
サブプロットの本数を数えてもしょうがない。
量や頻度がすごいことと、
中身がすごいことは関係ない。
中身がすごいということは、
深いということに近いと僕は思う。
それはそれそのものが深いのではなく、
「自分の深いところに届く」
ということだと思う。
人は、外に見せている自分と、
ほんとうの自分は違う。
その、ほんとうの自分の深いところに届くのが、
すごい中身だと思う。
世の中が間違っていると思っているが、
外には言わないこととか、
誰にも言わず、ずっと隠していたこととか、
遥か昔の忘れていた思いとか。
そういうところに共鳴するようなものが、
深いというのだと思う。
どういう隠した自分があるか。
それは自分に向き合うことでしかわからない。
外面で「いい」とか言っている要素はどうでもいいと思う。
もっと自分の奥底と関係したものをつくりたまえ。
それが他の人にまったく理解されないのだとしたら、
それをわかりやすく他人の何に例えられるか、
探せばよい。
そうすることで、テーマやメインモチーフが、
具体的になってくると思う。
すごい映画は、
自分の深いところに届く映画だ。
そう考えれば、
じゃあそれは何かを考えやすい。
ただ「すごい映画をつくろう」と思ったら、
量や頻度だけを考えがちだ。
それは脚本でやるべきことではない。
2020年07月28日
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