リライトをやろうとするとき、
それを正確にとらえて全体を見たほうがいいと思う。
「AでBを表現する」ことが、
表現であると僕は思う。
AとBは異なるものである。
同じものならば、
「言いたいことをそのまま書く演説、SNS」で良い。
それは表現という一種の芸術ではなく、
ただの吐露である。
表現は一段階上の文化で、
なるべく違うもの(ガワ)で、それ(中身)を表現するものだ。
Bをテーマ、Aをモチーフなどという。
テーマは何か。
それはどのような表現になっているか。
それを芯にとらえることが、
じつは作者には難しい。
自分の言おうと思っていることは明らかだが、
それが作品にうまく溶け込んでいるかどうかは、
客観的に考えることは難しいからだ。
「テーマは〇〇である。
なぜなら、ここで主人公がそう言っている」
というのは最低である。
それはAをAで書いている、演説レベルだ。
「テーマは〇〇である、
それは、全体の構造である、
〇〇と〇〇が〇〇になることからわかる」
という間接話法が、
物語というものである。
つまり、
テーマというものは、
一部の何かで示されるものではなく、
物語全体で、のびのびと表現されているものである。
つまり、そうなっていないものは、
どこかぎくしゃくしたものになってしまっている。
それを、リライト前にチェックしたいところだ。
ストーリー全体の、
〇〇という要素と、〇〇という要素が、
〇〇になって、〇〇になることで、
全体としては、〇〇〇〇〇〇ということを言っている。
しかも、それは一場面でなく、
全体のメインプロットで十二分に表現されている。
そういうものであるべきだ。
大体において、
できていない物語は、そこから逃げていると思う。
全体でこういう意味を描くために、
こういう構成でこういう落ちをつける、
という構造から逃げていると思う。
もちろん、やろうとしても出来ていない物語があるだろう。
それを、成功するように、直していくべきだ。
主人公の足りない要素は何か。
なぜ主人公は戦うのか。
主人公は何を得るのか。
敵対する者の代表する価値は何で、
なぜ主人公はそれを否定するのか。
主人公が成長しなければいけないことは何か。
それはどのようにしてなされるのか。
最初と最後で、変わったことは何か。
それらをまずチェックしよう。
それで中身がわかるはずだ。
テーマはこういうことをやろうとしている、
ということが明確に間接的にわかるだろう。
ここからがようやく本題で、
それをモチーフでどう描いているか?
ということなのだ。
モチーフは、
内容の象徴に使われる。
手紙は二人の愛の象徴だったり、
超能力は欠点の裏返しだったり、
道具は継ぐ心の象徴だったりする。
あなたのストーリーには、
そのような特別なモチーフを用いた表現が必ずあるはずで、
それはどのようなものか列挙してみるとよい。
よくある使い方でもいいし、
あまり見ないやり方でもいい。
で、そのモチーフが、
テーマに直接関係しているのは何かを、
リストアップするのだ。
うまくできているならば、
そのモチーフAを用いて、
テーマBを書き換えられるはずだ。
「愛は大事だ」となるストーリーならば、
「主人公は最後までその手紙を捨てなかった」
などのように書き換えられる、
ということだ。
この、AとBの組み合わせこそが、
ストーリーの心臓部である。
「このストーリーでは、
モチーフA1、A2、A3を用いて、
Bを書くことができる」
という形式で、具体的に書けるだろうか?
それが出来ているならば、
そのストーリーの芯は完成している。
あとは枝葉末節をリライトすればよい。
そのように出来てないならば、
出来るようにするには、どうしたらいいか考えるとよい。
新しいモチーフを持ってきてもいいし、
今あるモチーフを削ってもいいし、
今あるモチーフを新しい使い方をすることを考えてもよい。
概念はモチーフで操作される。
それは映画はビジュアルで見るものだからだ。
愛の象徴を手紙から指輪に変えることで、
「主人公はそれを銀歯にして埋めることで、
自分と一体化した永遠のものにした」
などのオリジナルな場面を思いつくことが出来るかもしれない。
そしてそれは、強い場面であればあるほど、
テーマのオリジナリティある表現として、
永遠に記憶されるものになるはずだ。
ほとんどの物語では、愛がテーマになることが多い。
だから、愛をオリジナルでどう描くか、
どうオリジナルな愛し方があるか、
無限のバリエーションがあるわけだ。
もちろんそうじゃないテーマでも、
同様にあたらしいバリエーションをつくれることが、
「AでBを表現する」ことの、
新しい地平を開くことになるはずだ。
そしてそれは、
あなたのオリジナリティとよばれるのだ。
結局それはどういう話か。
何で何を表現した話か。
それをうまく、
Aで書いた関節表現で言えるようになれれば、
それはイコンというオリジナルな何かに結晶化されて、
名作となるかもしれないよ。
(例: ドラマ風魔は「新しい風」=小次郎そのものでした)
本編の構造的に間接話法がうまくいっている≒ひとことで言えない→ポスター用の端的なキャッチコピーが難しい(うまいことキャッチコピーにできる言葉が見つかった瞬間、間接話法が崩れる?)ような気がするんですが、どう思いますか?
メジャー作品の日本版ポスターでは、Aストーリーベースのセンタークエスチョンをふわっと撫でてるコピーもしくはトンマナを匂わせるだけのコピーが多いように思います。
上手なコピーライターにかかれば、
別ルートからの間接話法で本質を描けると思います。
過去記事にも書きましたが、竹内まりやがドラマの主題歌をヒットさせていた頃は歌詞がうまく機能していました。博報堂時代までのジブリの糸井重里コピーも、名作揃いです。
なぜ現代にうまくいかないかという問題については、
「このコピーで良いのだろうか」と複数の人が検討するシステムにより、
間接話法のコピーが理解されず、直接話法のコピーしか合意が取れないからではないかと考えています。民主主義はボトルネックに合わせるので。
「日本よ、これが映画だ。」とか「最悪。」とかは、そうしたことの結果でしょう。
含意のあるCMコピーが減って「売り上げNo.1」みたいな直接話法コピーが増えたことも同じ問題と思います。
そもそも文学を扱う仕事なのに、「すべての人が合意する間接話法はない」が出発点になっていないと考えます。
(だからこそ最上の間接話法を目指すか、だから直接話法で最低のコピーになるかの違い)
また、かつては広告も文学でしたが、今は広告は告知だと思われてますね。その違いかもしれません。
仕事でも男女の喧嘩でもよくありますが、
「言った」「言わない」
「そういう意味で言ってない」「でもこの文字面だとそう読める」
というトラブルの原因は、
直接話法でやりとりしてるからでしょう。
Twitterや5ちゃんを見てもわかるとおり、
国語教育からやり直しですわ。
「分からないのがこわい」恐怖心と、
「分からないからわかるように読み込む」好奇心との乖離だと考えます。
で、僕は、溝は埋まらないと考えています。
埋めるような解説は時々しますけどね。