2020年07月28日

抗日ドラマの件

抗日はファンタジーではなく、
歴史的事実として扱いなさい。
そう中国政府がお達しをしたそうだ。

たとえば玉音放送は、日本では茶化せない。
そんな感じか。


たとえば、
玉音放送の素材を使って、ラップを作るとしよう。

「耐え」「たたた」「た」「耐え」
「がたきを忍び」「忍び」
「広島」「長崎」「ドーン!」

なんてのをトラックに載せてる人はいないのか。

これを、
ふざけてると感じるのか、
ファンタジーである表現の自由と考えるかだ。

(韓国の少年なんとか団のTシャツの件が笑えないのは、
それがファンタジーではなくリアルな政治意図があるからだ)


ファンタジーは、
現実が確固とあるときの、
カウンターカルチャーとして作られる。

現実認識がしっかりしているから、
それを背景にして、「こういじりまーす」がある。

しかし、ファンタジーが一人歩きして、
ファンタジーの方を現実だと思う馬鹿が増えると、
それは規制の対象になるかもしれない。

あなたたちは現実を愚弄したと。


いやいや、それは愚弄するのがわるいのではなく、
現実を認識してない馬鹿のほうが悪いのですよ。


文化というものは、
現実が確固としてあったときに、
そこからどう嘘をつくかという、
嘘つきのお楽しみである。

つまり、
歴史的事実をファンタジーの対象に使うとヤバイときは、
歴史的事実が確固とせず、
曖昧になっているときなのだ。


311の津波の映像で、
津波に巻き込まれる車を、
正回したり逆回したりして遊んだらどうなるか?

911でビルから飛び降りる人をそうしたらどうなるか?

不謹慎である。

しかしそれを、済んだこととして流せるかは、
「現実と嘘を切り分けて、
嘘の面白さを評価できる」かどうかの、
「度量」で決まると思う。
あとは、
その嘘が面白いかどうかで、決めるべきだ。

(ちなみに上の作例はたいして面白くないです。
ただ面白いものは氷山の一角で、
その下には莫大に詰まらないものがないとダメなのです。
そしてその莫大に詰まらないものを萎縮させると、
氷山が小さくなり、
面白いトップのレベルが下がるのです)


「抗日ドラマはAVだ」という意見をネットで見た。
つまりはファンタジーだと、
誰もが認めるものなのだろう。(ちゃんと見てないんであれですが)

「顔射は女が感じると童貞が誤解する」と批判する人は、
「そんな誤解をするレベルでAVを楽しんではいけない」
という教育をするべきで、
ファンタジーや嘘の面白さを責めるべきではない。


作り事はすべて嘘であり、ファンタジーで、
本当に起こったこととは関係がない。
テレビの悪役の俳優に現実で会ったときに、
石を投げるがごとき愚行である。


「リアルと違うからフィクションは発禁」
という人は、
なぜフィクションが人類の文化として大事なのか、
何一つ理解していないバカだ。

逆に、
そうしめつけてくる時代は、
かなりヤバいのだ。
そこから逃げる準備をしたまえ。


ぼくは手塚治虫がブラックジャックの医療技術に突っ込まれたときに、
「きみたちは大学生にもなって漫画と現実の区別がつかないのか」
と憤慨したというエピソードが大好きだ。
ファンタジーや笑いには、度量という余裕が必要だ。
posted by おおおかとしひこ at 10:36| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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