2020年07月28日

AストーリーとBストーリーの交差(「ジョジョラビット」評2)

仮にこの物語を、「ジョジョが一人前の男になる物語」だと仮定する。
しかし所詮は10歳の話だ。

「少年の成長」は、映画一本の分量としては、
やっぱり足りないと僕は思うんだよね。

以下ネタバレ。「いけちゃんとぼく」のネタバレも含みます。


その成長の物語が、
よほど良くできていないと、
それは映画一本として足りないと思う。

よくできている例は、
「マイライフアズアドッグ」
「スタンドバイミー」などだろうか。
(スタンドバイミーは、大人の自分の時間軸があって初めて成立するから、
純粋に子供のストーリーではないかもだ)
「銀河鉄道999」「さよなら銀河鉄道999」
の二部作も入れてもいいかもしれない。


よほど良くできていない場合、
「少年の成長」は、僕はBストーリー
(主人公の内面の旅)にしかならないと思う。

他に、メインストーリーのAストーリー
(事件と解決)がないと、
Bだけだと物足りなくなると僕は思う。


「ジョジョラビット」の場合、
Aストーリーが存在しなかった。

ナチス支配下というのは背景文脈に過ぎず、
主人公ジョジョは第二次大戦を終わらせることと、
何も関係がない。

だからジョジョが動かすべき、
事件と解決というAストーリーが存在しない。

たとえば、
「母親がなんらかの形でユダヤ人シンパの人々
(近代的思想の人権団体など)に関わっていて、
それがナチスに知られ、追われるのを、
ジョジョが助ける」
などである。
(それは成功に終わらず、失敗に終わり、
それがヒトラーへの失望や憎しみに変わっても良い)

そうしたことがないため、
ただ母が死んだ、
ただ戦争が終わった、
ただヒトラーが自殺した、
などがジョジョの人生と関係なく起こる。
「春が来た」「夏になった」などと変わりがない、
ただのカレンダーであり、
それとジョジョの人生は関係がない。

もっとも、子供がそのようなことに関与出来るものではない。
だから分離される、というリアリティはわかる。

だからこそ、
「子供一人が起こした、こんな物語があるんです」
というAストーリーを作るべきで、
それをメインとして描く上で、
エルサとのBストーリー(ラブストーリー)があり、
結果として、
ジョジョは一人前の男になった、
ということならば、
映画になったと思う。

スタンドバイミーのAストーリーは、
「死体を探しに行く」
「不良のアニキをぎゃふんと言わせる」であり、
Bストーリーは、
「優秀な兄の付属品と認識されている立場から、
成長してアイデンティティーを得ること
(結果的には、ストーリーテラーになること)」
だ。

Bストーリーは個人的なストーリー、
Aストーリーは公人としてのストーリー、
と考えるとわかりやすいだろうか。

そのようなAストーリーがなかったことが、
ジョジョラビットの背骨の弱さだ。

子供が主役になる映画の場合、
このことがネックになる。
「子供に出来るAストーリーを見つけられない」
ことに気付けず、
「結果的にBストーリーで勝負すること」だ。

子供の成長は、多くの観客の目を引かない。
小さい範囲での小さい成長だらである。
映画のテーマとして、あまりにも小さいのである。

だから、ナチス関連の事件解決
(それがとても小さなことでも)が、
Aストーリーとして必要になるのだ。

子供が関与する、大きめのAストーリーを準備できるかどうかが、
「子供を主役にし、その成長をテーマにした映画」
の成否を決めると思う。


ここで、
映画「いけちゃんとぼく」のプロデュース的失敗について、
言及しない訳にはいかない。

原作版において、このようなAストーリーは用意されていなかったため、
映画版では、そこにない、なにかを創作する必要があった。

いじめをどう克服するのかが、
出来上がった版でのAストーリーで、
僕はこれでは弱いとずっと思っている。

第一稿シナリオで用意したのは、
「想像上のものたち(いけちゃんだけではなく、
もっとたくさんのなにか)に囲まれたヨシオが、
彼らと別れを告げる」
というAストーリーであった。
つまりBストーリーがいじめの克服であった。
Bを解決するために、ヨシオは想像上のものと別れを告げる、
という話であった。

ところがCG費が途中で1億なくなったため、
「想像上のいきもの」を沢山つくる資金がなくなり、
Aストーリーは大幅に縮小され、
粘土細工のシーンへと収縮してしまった。
(あれも僕が作らなければ、全てカットの予定だった)
廊下で妖怪たちが別れを惜しむシーンは、その名残だ。

これは、AストーリーとBストーリーを認識して、
「その交換は無理だろ」と言わなかった僕のミスではあるが、
「これは最後のどんでんさえあれば勝てるから、
その前はなんでもいい」と認識の甘かったプロデュースサイドにも責任がある。
(なにせ野球対決を全カットしろと言った人たちだ)

「BストーリーをAストーリーにするのは無理がある」
と今ならこのように理屈を立てられるが、
当時の僕にはそこまでは無理だ。

つまり、このことを分かっている大人は、チームに一人もいなかったのだ。
今の僕がそこにいればこのことを語り、
「Aストーリーを作りなさい」とアドバイス出来ると思う。
「いじめの個人的克服はBストーリーに過ぎない」
と断言する。

それは、
「ジョジョのラブストーリーは、Bストーリーに過ぎない」
と断言することと、同じことである。



というわけで、
脚本にはAストーリーとBストーリーが必要だ。
そして子供が主役の場合、Bストーリーの小さい範囲にしか、
彼の行動が及ばないことが多く、
映画としてのAストーリー(センタークエスチョン)がなくなってしまう。

これは、子供主役の映画の陥りがちな盲点であると、
今の僕は考える。


「銀河鉄道999」は、
女王プロメシュームを倒すというAストーリーがしっかりある
(ハーロックというご都合はあるものの)ので、
映画として見るに値する出来になっていることに気づこう。

ジョジョにも、いけちゃんとぼくにも、
このAストーリーが欠けていたのである。



これらをきちんと論じられる人は、
あまり見たことがないので書いてみた。

諸君のシナリオの客観視に、利用されたい。
posted by おおおかとしひこ at 23:09| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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