2020年07月29日

象徴表現の誤り

本編中で、「XはYの象徴である」と明示されている。
一般的な文化的慣習で、「XはYの象徴である」と知られている。
この時に限り、「XはYの象徴である」と本編内で扱える。

深読みすればそうだ、というのは、
正しい象徴表現の使い方ではない、と僕は考える。


たとえば。

どこかのツイートで、
「○○○はどんぐりを置いていった。
どんぐりは古代食料となったから、
それは『沢山食べて成長せよ』というメッセージだ」
と解釈するものがあった。
これは文化的合意はギリギリ得られる範囲の象徴表現だろう。

しかしさらに、
「どんぐりは油成分が多く、加熱すると火を吹くこともある。
これは『熱い心を持ち続けろ』という、
○○○からの隠されたメッセージなのだ」
と解釈が書いてあって、
(僕はその物語を知らないのだが)
それは深読みに過ぎると思ったのだ。

人間には「解釈したい心」というものがあり、
隠された何かを暴きたい心理がある。
好きな作品が出来たら、
その奥にまだ隠されている何かを発見したくて堪らなくなる。
そうして、
「実はこれはこれを象徴している、
隠されたメッセージなのではないか?
いや、きっとそうだ、だって○○○と○○○で辻褄が合う、
これはきっと暗黙に隠されたメッセージを発見したぞ!」
ということをやりたがり、
それをすることが「考察」という、
オタクの大好きな行為なわけだ。

考察する楽しみを僕は否定しない。
作品の楽しみ方は自由だからだ。

しかし、作品を提供する側が、
そんな隠されたメッセージ探し遊びを仕込むことで、
それは豊かな象徴表現をしていると思うのは、
傲慢な誤りであると指摘したい。


作品内で象徴表現として認められるのは、
第一番には、
作品内で「XはYの象徴」と定義されたときのみだ。

「このペンダントは死んだ彼女の形見」と定義されたときのみ、
「そのペンダントを谷底に捨てる」が、
「彼女との決別の決意」を意味するし、
「そのペンダントが奪われたので取り戻す」が、
「死んだ彼女を大切にしている」を意味するわけだ。

ペンダントはまだ分かりやすい象徴だが、
これをオリジナルな象徴にする手がある。
Tシャツ、ストーブ、二重に現れる虹、布団、
などのようなアイテムを、
それを連想しないYの象徴にしてしまえば、
それはきっとオリジナルな表現になるだろう。
(レッスン: そんなXとYの新規で珍奇な組み合わせの例を10個ほど考えたまえ)

それらがオリジナルであればあるほど、
それはその作品でしか見ない、
新しい表現になるし、
それは新しいスタンダード(文化)になる可能性すらある。

たとえば「パンを咥えて走る女子高生」は、
粗忽者の象徴だ。
それは、これが発明される前にはなかった象徴表現である。
「ちこくちこくー!ドシーン!どこに目つけてんのよ!
そっちこそ!」
まで含みで、パンはその象徴に昇格したわけだ。

そんな新しいXとYの組を、あなたは作れるチャンスがある。



二番目に言えることは、
文化的合意のある象徴表現は、使える。
「銃や刀などの武器は、男根の象徴」などだ。
これは夢占い的な知識で、広く知られたものであるが、
同様に夢占いで「水は心の象徴」は、そんなに知られていないだろう。

だから、「彼女は汚れた水を飲む」と書いたとして、
「彼女は望まぬ境地にいる」を象徴し切れているとは言えない。

最近京都弁が分かりにくいと評判だけど
(実家の近くのモノを送ってきたら、
「今年は帰省せんときなはれ(これを送ったので、
これで我慢せえ)」の意味だとか。
こんなん京都人知ってたらわかることやんけ、
とは僕らは思うがね)、
それは文化的合意が、全国的にはなされていないわりに、
高度な文化的象徴の体系があり、
面白いからである。


最初の例で言えば、
どんぐりはギリギリ食料の象徴で、
どんぐりは情熱の象徴ではない。

だから、どんぐりを情熱の象徴として使うのは、
作劇上の誤りである。

本編で定義があればセーフだし、
炎を情熱の象徴と使うのもセーフである。

しかしどんぐりを調べれば分かることだ、
として、象徴表現に使うことは、
「調べることを強要する」という意味で、
誤りである。

もっとも、スノビズムな人たちは、
「自分がどれだけ博識か」でマウントを取りたがるため、
オタクたちが象徴表現の考察にふけるのは、
性癖上しょうがないのである。


あなたの書く物語は、
スノビズムな客だけが対象か?

そうでないならば、
作中で「XはYの象徴である」を定義し、
オリジナルな象徴表現を開拓しなさい。

それが思いつかない場合、
文化的合意のあるものを使い、
マイナーなこれはメジャー範囲の中だろうか?
と毎回疑問に思い、調べる癖をつけなさい。

その二つが行われていないものは、
象徴表現に関して、
創作努力をしたとは言えないと、僕は思う。
posted by おおおかとしひこ at 00:31| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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