2020年08月06日

周りを廻って話をするだけではストーリではない

世界を周遊することは大変たのしい。
しかしそれだけでは映画にならない。

観光旅行はストーリーか、ということだ。

ストーリーとは、日常を離れて、
非日常で行う冒険である。
それはつまり、観光旅行と同じ形式をしている。

別に、外国に旅行しなくても、
いつも住む安全で安心できる世界から、
別の、危険で不安な世界へいけば、
それは一種の旅である。

安心安全なものは旅ではない。ただの出張だ。
ドキドキしないと旅ではない。
成長する旅というのはそうしたものだ。
安全柵の後ろから見るだけの旅は、
なんら成長をもたらさない。

一人旅はそうした要素が強いが、
二人以上の旅はどうだろう。
ただ話をして、帰ってくるだけで、
それはストーリーにはならない。
旅自体は面白いが、それはストーリーではない、
ただの観光旅行である。

では、観光旅行とストーリーは何が違うのか。

僕は、世界に働きかけて、
その世界を変えることがストーリーで、
変えないことが旅行だと思う。

観光客は観光先を変化させない。
ただの通りすがりだ。

そうではなく、ストーリーの当事者とは、
世界を変える者(結果的にせよ、目的があってそうするにせよ)
のことをいう。


特殊な世界、特別な世界を設定したときに、
ついやりがちなことは、
「ただ珍しい世界を巡って、色々話をして、
おしまい」になることだ。
つまり、そういう世界への観光旅行で終わってしまうことである。

それはストーリーではない。
あることが起こり、
そのことで世界が変化し、
登場人物も変化し、
相互に影響しあい、
結果的によくなる(ハッピーエンド)か、
悪くなる(バッドエンド)ことが、ストーリーだ。

世界と人間が「永遠に元に戻らない変化」をしないものが、
観光旅行だということだ。
つまり、良かれあしかれ、
世界は変わってしまう。


「ビフォーサンライズ」という、
観光旅行に見せかけたラブストーリーがある。

旅行先で出会った男女が、
ただ色々巡って話をするだけの形式だ。
これが観光旅行ではなく、
ストーリーであるゆえんについて考えよう。

男女の話が、
実は恋愛関係の進展になっているから、
これはストーリーなのだ。

恋愛関係というよりは、
信頼関係というか、人生の哲学を交換するというか。
これは話をただしているだけではない。
男女が互いを信頼できるか、
距離感を測っているのだ。
だから、落ちとして、
手を出すかどうかに悩むことになるわけだ。
アメリカっぽい結論にするならば、
セックスで終わってしまうだろう。
そんな軽薄でよいのか、後半はそういうことを中心にすすむ。
話をするふりをしながらね。

だからラストはとても興味深く、
一生こころに残る車窓風景となるわけだ。

僕が好きなのは、夜明けの一瞬前に、
これまで話してきたところが誰もいない状態で、
次々と出てくる空舞台の絵だ。
それは冒険の舞台の回想なのだ。
(ドラクエのエンディングと同じ。
そうそう、「リンダリンダリンダ」でも、
雨の降る校内の空舞台があって、
それが同じ意味のショットになっている)


あなたのストーリーは、
ただ観光旅行しているだけだろうか?
それともストーリーを描いているだけだろうか?

「ビフォーサンライズ」を見たあとでは、
ただのベンチやただの街が、
特別な景色に生まれ変わる。
世界が変わった証拠である。
それを恋と言わずして、何を恋というのだろう。
だから「ビフォーサンライズ」は、
観光旅行の形式をとった、
優れたストーリーなのだ。


非日常で、主人公は何をするのか。
ただ話だけしていないか。
ただ感想や哲学を述べたり、おしゃべりしてるだけになっていないか。
行動せよ。
目的は何か。
もし観光旅行しかしていないな、
と感じたら、
「ビフォーサンライズ」のお喋りが、
実は行動になっている(恋人になろうとしている)
ということをチェックするといいかもしれない。

ストーリーとは、
誰かを殴ったり、倒したりすることだけではない。
何かを手に入れたり、失うことも含む。
posted by おおおかとしひこ at 00:29| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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