2020年08月05日

クズ系主人公

ここ最近はやりというか、一種のスタイルとなりつつあるもの。
小さな漫画とかに多いかな。映画ではそんなに見ない。

どうしても映画の場合は、Aストーリーが派手なものになるから、
そこまでクズ系主人公にならない。
クズ系になるのは、
現実を舞台にした、リアルなストーリーのことが多い。
いわゆる、日常系か。

日常系において、
映画の主人公のような人はいない。
リアリティが欲しくなる。
というか、日常系は、リアリティの煮詰めたものだと言える。

私たちは清廉潔白ではない。
道徳の教科書に出てくるような立派な人ではない。
成功した、褒められる人ではない。
だからこそ、映画の主人公のような立派な人になるべきか、
だからこそ、似たようなひどい人が出てくるものをリアルだと思うか、
ということで、
後者にクズ系が出てくるわけだ。

つまり、クズ系主人公は、
わたしたちが立派でない証拠で、
リアルで会う、いやな人たちの、写し鏡だ。

ワイドショーには二種類ある。
自分たちよりよき人をみて憧れることと、
自分たちより低き人をみてこき下ろすことだ。
後者は、落ちた人を見て笑い、あざけり、
自分たちが安全なことを確認して安心するためにある。
もともとピエロはその役割だ。
芸人もそこの領域である。

自分たちよりも下の者がいることで、
庶民クラスが安心するという構造は、
必要悪として、身分制度に組み込まれてきた歴史がある。
四民平等や奴隷解放宣言は、そうした制度身分制をやめたことではあるが、
一方人間の本性など変わらないので、
自分より下の者をつくることで安心したい。
かつては女がそこにいたが、
今は派遣や移民がそこにいる。

で。
日常系では、そんな政治的なことを描くわけではない。
名目上は、人権社会は全員平等である。
(しかし資本主義は蔓延している)
しかし微妙に自分よりクズな主人公を描くことで、
わたしたちは世間で立派であるべきだという圧力から逃避する。
そんな人は自分を含めいないではないかと。
だから、クズを見て、
自分よりクズだなあ、こんなクズいるよね、
などと下の者を見て、最終的に安心するのだ。

殺人事件などは、娯楽として描く場合、
このようなものだ。
自分の住んでいる世界よりもひどい世界を描くことで、
安心したい。

つまり、日常系クズ系主人公は、
殺人事件や、ピエロの、新しいバージョンだ。

闇金ウシジマくんなどは、そうしたものだろう。
最近だと連荘パパが話題になった。


ナンバーワンでなくてもいい、もともと特別なオンリーワン、
と自己責任になってしまった。
人間は、そんなに責任を取れない。
取れないから、自分より自堕落で、下の者を見たがる。
安心したいからだ。


リアリティは、リアルよりひどい。
そういう見世物もある。
だから、クズ系主人公は、
リアルを煮詰めて、
わりとひどい話をつくることが多い。

マイルドなホラーのジャンルに入れてよいのではないだろうか。
posted by おおおかとしひこ at 00:06| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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