ここ最近はやりというか、一種のスタイルとなりつつあるもの。
小さな漫画とかに多いかな。映画ではそんなに見ない。
どうしても映画の場合は、Aストーリーが派手なものになるから、
そこまでクズ系主人公にならない。
クズ系になるのは、
現実を舞台にした、リアルなストーリーのことが多い。
いわゆる、日常系か。
日常系において、
映画の主人公のような人はいない。
リアリティが欲しくなる。
というか、日常系は、リアリティの煮詰めたものだと言える。
私たちは清廉潔白ではない。
道徳の教科書に出てくるような立派な人ではない。
成功した、褒められる人ではない。
だからこそ、映画の主人公のような立派な人になるべきか、
だからこそ、似たようなひどい人が出てくるものをリアルだと思うか、
ということで、
後者にクズ系が出てくるわけだ。
つまり、クズ系主人公は、
わたしたちが立派でない証拠で、
リアルで会う、いやな人たちの、写し鏡だ。
ワイドショーには二種類ある。
自分たちよりよき人をみて憧れることと、
自分たちより低き人をみてこき下ろすことだ。
後者は、落ちた人を見て笑い、あざけり、
自分たちが安全なことを確認して安心するためにある。
もともとピエロはその役割だ。
芸人もそこの領域である。
自分たちよりも下の者がいることで、
庶民クラスが安心するという構造は、
必要悪として、身分制度に組み込まれてきた歴史がある。
四民平等や奴隷解放宣言は、そうした制度身分制をやめたことではあるが、
一方人間の本性など変わらないので、
自分より下の者をつくることで安心したい。
かつては女がそこにいたが、
今は派遣や移民がそこにいる。
で。
日常系では、そんな政治的なことを描くわけではない。
名目上は、人権社会は全員平等である。
(しかし資本主義は蔓延している)
しかし微妙に自分よりクズな主人公を描くことで、
わたしたちは世間で立派であるべきだという圧力から逃避する。
そんな人は自分を含めいないではないかと。
だから、クズを見て、
自分よりクズだなあ、こんなクズいるよね、
などと下の者を見て、最終的に安心するのだ。
殺人事件などは、娯楽として描く場合、
このようなものだ。
自分の住んでいる世界よりもひどい世界を描くことで、
安心したい。
つまり、日常系クズ系主人公は、
殺人事件や、ピエロの、新しいバージョンだ。
闇金ウシジマくんなどは、そうしたものだろう。
最近だと連荘パパが話題になった。
ナンバーワンでなくてもいい、もともと特別なオンリーワン、
と自己責任になってしまった。
人間は、そんなに責任を取れない。
取れないから、自分より自堕落で、下の者を見たがる。
安心したいからだ。
リアリティは、リアルよりひどい。
そういう見世物もある。
だから、クズ系主人公は、
リアルを煮詰めて、
わりとひどい話をつくることが多い。
マイルドなホラーのジャンルに入れてよいのではないだろうか。
2020年08月05日
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