エゴサーチしない人とする人がいる。
どっちでもいいけど、僕はエゴサーチするべきだと思う。
でも、エゴサーチしていない人が、
してみると、びっくりしてショックを受けるから、
まずは覚悟することだ。
人は本人のいないところでは、どれだけ言いたい放題か、
ということを知ることが出来る。
また、人は案外あほうで、せっかくこうしているのにそれに気づかずに、
文句を言い続けているというケースにも遭遇するだろう。
誤解は全然するし、
こちらの仕掛けにまったく乗っていないし、
全ての情報を仕入れてわかっているわけでもない。
つまり、人はとても中途半端に、
作品を受け取っているということを知るべきだ。
こちらとしては、
100%受け取ってくれて、
その奥底まで味わってほしいと考えているのだが、
それを受けとるのは、
よほどのファンでない限りない。
たいていは30%程度の理解度で暮らしていて、
また別の30%程度の別の作品について、
同様に対応して生きている。
大衆(人の群れ)とはそのようなものである、
ということを知るには、
エゴサーチはとてもよい。
もしあなたが、
大衆に100%受け入れられていて、
評判も上々で、
いくつかの欠点は愛とともになかったことにされているだろう、
などと期待しているのなら、
甘ちゃんもいいところだ。
基本、人は他人をこきおろすところから入ってくる。
それは、あなたが知らない他人にどういう態度で最初に接するか、考えればわかることだ。
最初は必ず眉唾で、
100%を理解してからスタートではないものだ。
最初から100%理解し、どんな他人でも受け入れる人がいたとしたら、
それはキャバクラ嬢か、母親だけである。
大衆は圧倒的な他人だ。
もしあなたが直接あって、説得できれば、
まだ理解度はすすむかもしれないが、
実際にはそうはいかない。
中野でトークショーを毎回するわけにはいかない。
どこか見えないところで、
勝手に誤解したり、理解が中途半端なまま、
あなたの作品を好き勝手にいじることだろう。
それに耐えられないのなら、
エゴサーチはやめておくことだ。
しかし目を逸らしても真実は変わらず、
いっときの安寧しか保証しない。
エゴサーチをするには、
ある種の諦観や客観視が必要である。
信者が多くて反論がない状態が幸せではないということに気づくことだ。
誤解や無理解もふくみつつ、
どれだけ人のこころに刺さっているのか、
それだけが分ればいいと思う。
どうせどんな感想でも、
あなたが最初に想定した範囲だ。
想定外の感想が来ることはほとんどない。
(あるとしたらあなたは考えが足りない)
それらの実態がどういうものなのか、
ただ知るだけのことである。
人の脳は案外汚い。
言葉や思考と同様に。
それを知ったうえで、
どのような美しいものをその鍋の中に投入するのかを、
考えることである。
世の中はきれいごとだけではない。
きたない事だけでもない。
清濁併せ呑む程度の度量が、
エゴサーチには必要で、
それは作家としての肝の太さだ。
芸能人がエゴサーチで色々と傷ついたという報道が最近よくある。
心が痛い。
だがその程度で傷ついているやつは、
エゴサーチをする資格も、創作をし続ける覚悟も、
足りないとは思う。
全ての逆風を、味方に書き換えよ。
すぐれた創作というのは、そういうものだ。
2020年08月09日
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