読書感想文で自由に書いてきた経験のある人は、
自由に書きなさい。
書き方がわからない人は、以下を参考にするといいと思う。
感想文なので、批評を求められていないことに気づこう。
書くべきことはあなたの主観である。
客観的なことはいらない。
あなたの思ったことが正義で、人と違うことを思ってもよいのだ。
最初に認識するべきことはそこだ。
他人と同じかどうかが正義ではなく、
あなたの思ったことに忠実かどうかが正義だ。
よくなかったら、ちゃんとよくないと書こう。
この場合、「糞」で思考停止するのはもったいない。
どういうところがどう糞だったのか、
ディテールを使いながら、徹底的に考察するのも一興だ。
普段はこうだ、理想はこうだ、とキレイなものとの比較もいいだろう。
こうだと思っていたのにこうだった、これは糞だ、
という比較論はとても面白いからだ。
もっと進んだつまらないものの感想は、
「こうであればよかったのではないか」という提案だ。
これは批評を越えて創造のレベルではあるが、
これが出来るならやってみるとよい。
そういうのが得意な人は、いずれ創作を始めるかもしれない。
よかった作品についての感想でよくあるものは、
「よかったです、以下語彙がなくて省略」
になるものである。
そこが見たいというのに。
こういうときは、
ものすごく好きなところを、
徹底的に語るとよいのだ。
どうせ感想文であり、批評ではない、という最初の前提を意識しよう。
妥当な批評かどうかなどどうでもよくて、
あなたの思ったことが正義だ。
ということで、ワンシーン上げるとしたら、
どのシーンがよかったのか、
そこに至る感激や感動について、
猛烈に好きならば、そのことについて、
ひたすら書けばよい。
もし、捨てがたいもうワンシーンがあれば、
さらに書いてもよい。
全部について書く必要はない。
よかったところを深く書けばよくて、
広く書く必要はない。
一部あれば、全部が想像できる。それが人間というものだ。
ああ、深く理解した感想だな、
なのか、適当に言葉を合わせただけだな、かは、
読む人には明らかだ。
感想文は自由だ。
他の形式でもよい。
しかし、どう書いたら分らない人は、
参考にされたい。
ワンシーンだけ、徹底的によかったことを並べるだけで、
それは最高の感想文になるぞ。
先日カフェで、
女子高生が夏目漱石の感想文を求められていて、
「どう書けばいいかわからない」と言っていた。
「先生がこう書いてほしい答えがあればコピペするのに」
と嘆いていたのを聞き、
それはおかしいと思ったのだ。
感想文に正解はない。求められる正解はない。
それを知ることだけでも、感想文を書くことに意味がある。
この世に正解がない文章があり得ることを知るだけで、
人生は豊かになるというものだ。
教師の求める答えを探すキョロ充になっても、
世の中を変える人にはなれない。
付和雷同して生きていくことになるだろう。
2020年08月10日
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