何がやばいのか?
同じやばさだけではすぐ飽きるので、
やばさはどんどん変わっていく。
それに対応しないともっとやばくなるし、
やばさはたいていどんどんエスカレートする。
専門用語では危険というけれど、
それだけでは日本語として実感がないので、
「やばい」と定義してみた。
主人公は、とにかくやばい状況に巻き込まれる。
逃げても逃げても根本的解決にはならず、
やばさは増していく。
ついにそのやばい状況を、自分で解決しないといけなくなる。
そうしないともっとやばくなるからだ。
主人公の動機は、正義でも義侠心でもなく、
「これ以上やばくなるとやばい」ではないかと思う。
もちろん、そこに虚栄心や、成功の果実の予想や、
正義心や、義務や、かねてからやりたかったこと、
かねてからやるべきだったこと、
などの複雑な理由が混ざることもある。
「爆発が起きたから逃げる」という一点のやばさではなく、
主人公の人生そのものにかかってくる、
なんらかのやばさと関係する。
で、そのやばい状況に本格的にメスを入れれば入れるほど、
やばさは入り組み、新しいやばさがあることがわかるわけだ。
退屈するストーリーというのは、
やばさが一定しているという特徴がある。
同じやばいを繰り返しているだけで進展しなかったり、
飽きてきたり、
やばさが縮小してしまって安心してしまったりだ。
そうではなく、
やばさはジェットコースターにならなければならない。
やばいな、やべえやべえやべえ!
ふう、いや、安心するな、やばさは変わってないぞ、
うわ、もっとやべえじゃん!
予想以上のやばさだ、なんとかしなきゃ、
今度はこっちがやべえのかよ!
ああ、これは賭けだな、やるしかない、123!
みたいな、
やばさはどんどん連鎖して、
休む暇すら与えないのが理想のジェットコースターだ。
意図的に安心する平坦を用意する小技もある。
しかし優秀な平坦は、
「この先が奈落である」ということを分かった上での平坦だ。
戦場におけるクリスマス休戦のようなものだ。
嵐が去って安心したからといって、
その次の片付けがやばかったりするわけだ。
つまり、アドレナリンは出っ放しだ。
ストーリーが描くべき人間とは、
この、アドレナリンが出ている状況下で、
人はどうするかである。
平穏な普通の日常ではなく、
普段は平穏な顔を見せる人が、
やべえアドレナリンが出ていると、
どのような態度や行動に出るかなのだ。
愚かな人がいれば、賢い人もいる。
勇気のある人もいればない人もいる。
それを、客観的に捉え続けられるかが、
作者の器量と言っても良い。
見ている時はそんなもの当たり前のはずなのだが、
いざ書いてみると、そうはならないものだ。
なぜなら、人間のアドレナリン放出は、
何日(または完成まで一ヶ月〜数ヶ月)も持たないからだ。
作者のアドレナリンのほうが先に切れてしまうのである。
(これを防ぐために、僕はなるべく一日で書ける分量内で、
作品の尺を決める練習をすると良いと思っている。
15分から30分が限界かな。
それ以上は複数日に渡ることになるので、
複数日でのアドレナリンコントロールが鍵になるよ)
それは二時間のアドレナリン放出劇である。
そう考えると、
そのやべえ連鎖を、一ヶ月(以上)かけて組み立てている、
ということを忘れがちだ。
今、何やべえなのか。
どうやべえのか。
やばいリストを作ろう。
最初のやばいは、次のどうやばいへ変化するのか。
そこからそこまで何ページあるか。
量的タイミングはそれでよいか。
実は、ページ数が長いとか短いとかは、
「そのやばいに何ページが妥当か」という感覚のことではないかと思う。
長いならば思い切った省略法でページを稼ぐべきだし、
短いなら描写やエピソードを増やすか、
次をもっとテンポを上げる必要がある。
やばいはつまり、心臓の鼓動である。
あなたは、観客の拍動のコントロール者である。
2020年08月05日
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