2020年08月05日

ストーリーというのは、どうやばいかを競うのだ

何がやばいのか?
同じやばさだけではすぐ飽きるので、
やばさはどんどん変わっていく。
それに対応しないともっとやばくなるし、
やばさはたいていどんどんエスカレートする。


専門用語では危険というけれど、
それだけでは日本語として実感がないので、
「やばい」と定義してみた。

主人公は、とにかくやばい状況に巻き込まれる。
逃げても逃げても根本的解決にはならず、
やばさは増していく。
ついにそのやばい状況を、自分で解決しないといけなくなる。
そうしないともっとやばくなるからだ。
主人公の動機は、正義でも義侠心でもなく、
「これ以上やばくなるとやばい」ではないかと思う。

もちろん、そこに虚栄心や、成功の果実の予想や、
正義心や、義務や、かねてからやりたかったこと、
かねてからやるべきだったこと、
などの複雑な理由が混ざることもある。
「爆発が起きたから逃げる」という一点のやばさではなく、
主人公の人生そのものにかかってくる、
なんらかのやばさと関係する。

で、そのやばい状況に本格的にメスを入れれば入れるほど、
やばさは入り組み、新しいやばさがあることがわかるわけだ。

退屈するストーリーというのは、
やばさが一定しているという特徴がある。

同じやばいを繰り返しているだけで進展しなかったり、
飽きてきたり、
やばさが縮小してしまって安心してしまったりだ。

そうではなく、
やばさはジェットコースターにならなければならない。

やばいな、やべえやべえやべえ!
ふう、いや、安心するな、やばさは変わってないぞ、
うわ、もっとやべえじゃん!
予想以上のやばさだ、なんとかしなきゃ、
今度はこっちがやべえのかよ!
ああ、これは賭けだな、やるしかない、123!

みたいな、
やばさはどんどん連鎖して、
休む暇すら与えないのが理想のジェットコースターだ。

意図的に安心する平坦を用意する小技もある。
しかし優秀な平坦は、
「この先が奈落である」ということを分かった上での平坦だ。

戦場におけるクリスマス休戦のようなものだ。

嵐が去って安心したからといって、
その次の片付けがやばかったりするわけだ。


つまり、アドレナリンは出っ放しだ。


ストーリーが描くべき人間とは、
この、アドレナリンが出ている状況下で、
人はどうするかである。

平穏な普通の日常ではなく、
普段は平穏な顔を見せる人が、
やべえアドレナリンが出ていると、
どのような態度や行動に出るかなのだ。

愚かな人がいれば、賢い人もいる。

勇気のある人もいればない人もいる。

それを、客観的に捉え続けられるかが、
作者の器量と言っても良い。


見ている時はそんなもの当たり前のはずなのだが、
いざ書いてみると、そうはならないものだ。

なぜなら、人間のアドレナリン放出は、
何日(または完成まで一ヶ月〜数ヶ月)も持たないからだ。
作者のアドレナリンのほうが先に切れてしまうのである。

(これを防ぐために、僕はなるべく一日で書ける分量内で、
作品の尺を決める練習をすると良いと思っている。
15分から30分が限界かな。
それ以上は複数日に渡ることになるので、
複数日でのアドレナリンコントロールが鍵になるよ)

それは二時間のアドレナリン放出劇である。
そう考えると、
そのやべえ連鎖を、一ヶ月(以上)かけて組み立てている、
ということを忘れがちだ。


今、何やべえなのか。
どうやべえのか。
やばいリストを作ろう。
最初のやばいは、次のどうやばいへ変化するのか。
そこからそこまで何ページあるか。
量的タイミングはそれでよいか。

実は、ページ数が長いとか短いとかは、
「そのやばいに何ページが妥当か」という感覚のことではないかと思う。

長いならば思い切った省略法でページを稼ぐべきだし、
短いなら描写やエピソードを増やすか、
次をもっとテンポを上げる必要がある。

やばいはつまり、心臓の鼓動である。
あなたは、観客の拍動のコントロール者である。
posted by おおおかとしひこ at 10:39| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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