2020年08月15日

映画が3Dに置き換わらなかったのはなぜか

3D映画が登場した時、いずれ映画は全てこれに置き換わるかのような勢いだった。
しかし3D対応は今や一部のアトラクション映画に限定されている。

僕はコストの問題ではないと考える。
映画は3Dに拡張するべきものではなく、
もともと2Dのものだったのだ。


その証拠はいくつかある。

主な3つは、
「アングル(構図)」「切り返し」「モンタージュ」
だろうか。

実は映画の文法を色濃く継承しているのは、
日本の漫画ではないかと思う。
手塚や石森が盛んに映画のモンタージュ技法を漫画に取り入れたおかげで、
漫画はカットの構成法を、
ほとんどコマの構成法にしたてあげた。

(違いはコマの縦横比、右から左と決まっている視線誘導、ページめくり、
効果音やセリフを絵の前に出す配置などだろうが、
それを除いた根本的なことで以下を議論する)



漫画にも映画にもあるのは、
「構図がビシッと決まっている」だ。

構図には美しさが存在し、
今それについて議論するには多すぎる理論があるので省略すると、
決まった構図は、
伝えるべき情報を的確に伝え、
しかもそこに興奮をもたらすと思う。


「アングル」は正確にはカメラ位置とレンズ選択、
ライティングや人やモノの配置、背景などで決まるが、
要するに最終的な2Dの構図を作るための行為の集積だ。

ということで、映画のカットは、2Dの構図を描くためにある。
漫画と同じである。


3D映画は、極論すると構図が存在しなかった。

2D映画の構図の文法を流用した部分もあるが、
それは2Dで伝えるために最適化したものだから、
奥行き成分は余計に感じたものだ。

じゃあ3D特有の構図があったかというと記憶になく、
人物の位置関係や背景の位置関係のような記憶しかなく、
絵的な構図があったかというと、
あまり記憶にない。

これは演劇に似ている。
演劇のヒキ絵の記憶しかなく、
なんとなくの雰囲気しか記憶にないことに、
かなり近いと思う。

演劇でひとつだけアングルを切れるものがあって、
それはカーテンコールだ。
この時だけカメラ目線が許される。
誰が誰の隣にいたとか、この時だけは記憶されやすい。

一方、漫画でも映画でも2Dの構図は、
カメラ目線ではないものだ。

つまり、「構図とは何か?」である。

構図とは、本来3Dで絵的記憶の残らない我々の脳が、
カメラ目線くらい強烈な絵的記憶に昇格させるための、
3Dから2Dへの圧縮において、
行われる絵的記憶なのではないか?
という仮説だ。

平凡な絵が記憶に残らず、
新しい構図が記憶に残りやすいのはそういうことだと思う。
もちろん、奇抜なだけの構図は、
意味とともに記憶され難いのでなかなか記憶に残らないけどね。

とてもわかりやすい例は、
夕日バックのシルエットだろうか。
シルエットは奥行きを持たない、2D画面的である。

構図とは、こうしたものなのではないか。

仕事で俯瞰ショットを撮れることは滅多にないので、
俯瞰を撮ると新しくて興奮するけど、
よく考えたらどこかで見たことはあるわな、
と冷静に戻ることがまれによくある。
今見ている光景を俯瞰で2D化すると、
現実がミニチュア化される圧縮の面白さを味わうことができる。

つまり、構図とは「現実をミニチュア化する面白さ」だと言える。

現実はごちゃごちゃで汚くても、
ミニチュアは整理されて整えられるものだ。

つまり、ビシッと決まった構図とは、
現実を整理しなおしたものである。


この「整理したミニチュア化」が、
3D映画や演劇にはない。
2D映画では常識のこれがないと、物足りなくなると僕は思う。
演劇ではその物足りなさは、
「実際そこでやってる贅沢」で補完できるけど、
3D映像ではそうはいかない。

(演劇のTV中継がなぜつまらないか?ということの、
これはひとつの答えである。
生でないから、という簡単な理由以外に、
2D映画では「整理したミニチュア化」の面白さが必要で、
つまりはスポーツ中継のような適当なアングルではなく、
物語に沿った構図にビシッと決めるべきなのだ。
しかしそれは演劇ではなくもはや映画なわけだ)

3D映像にはビシッと決まった構図がない。
だから間延びして詰まらない。

ひとつだけある。グワってなにかがこっちに向かってくる、
いわゆる「飛び出し」だ。
これでびっくりさせるのは、アトラクションである。
これは、カメラ目線と関係があると思う。

ところが物語ではカメラ目線はない。

結果、アトラクション形式の3D映画しか残らないのではないか。



映画が映画たり得たのは、
アップショットの切り返しだと思う。

それまでヒキワンカットという演劇と変わらないものが、
カットを割ることでアップショットを作れて、
よりその人の気持ちに入り込むことになり、
物語のあり方が変わったわけだ。
(漫画でも同じ)

また、アップショットを次々に切り返すことで、
その人同士のドラマに入りやすくなった。
(漫画でも同じ)

対立はドラマの基本であるが、
対立する二人を、観客は横からしか見ることはできない。
一方の顔を見ればもう一方は背中である。
それを、「両方の顔を交互に見る」ことを可能にした「切り返し」という手法は、
2D映画、漫画においては革命だった。

(漫画だと、たとえば「のらくろ」にはこれがない)

3D映画には切り返しがない。
あるけど、酔うのでなるべく減らす。
となると、演劇時代に戻るというわけだ。

切り返しがないことで、
根本的に対立を描くことが困難になり、
「主人公の内面がドラマになってしまう」
を逆説的に発見した映画に、
ワンショット映画「バードマン」がある。

切り返しは、他人と他人のぶつかり合いに、
根本的な影響を与える。
逆に、2D映画や漫画では、
他人と他人のぶつかり合いに(喧嘩とは限らない)こそ、ドラマがある。

3D映画は、これが希薄なため、
2D映画を拡張するどころか、
先祖返りさせてしまったのだ。


切り返しはモンタージュの一つである。

モンタージュは編集技法の一つで、
ただ単に時系列を並べるのではなく、
意図的に並べることで意味を作っていく方法である。
ヒキワンカットでの対立よりも、
切り返しによる対立表現の方が強いので、
切り返しはモンタージュが効いていると考えられる。

たとえば、
「にこやかに握手を求める」
「しかし後ろ手にナイフを持っている」
のカットをつなげば、
「この男は嘘をついていて、殺そうとしている」がわかる。

セリフや説明を要しない、
もっとも速い伝わり方をする。
これもモンタージュの一つだ。

「後ろ手」は、机の下や、ポケットの中、
あるいは壁の外、近くの建物に待機させた軍隊、
隣のビルに待機させたスナイパー、
宇宙衛星の核爆弾の照準、
などにも応用できる。

同時刻のものを映し出すだけでなく、
空間的、意図的に離れたものを、
一続きにつなげるのが編集、モンタージュである。
(もちろん漫画でもこれはデフォルトでやるよね)

3D映画は、これが貧弱だ。
カットを素早く切り替えると3D酔いをするからだ。

画角や焦点距離が変わりすぎて、
ピントを合わせるのが疲れることで起こると思う。


逆にいうと、
2D映画や漫画は、
ピント距離をスクリーンや紙に固定することで、
情報の切り替えを速くすることが出来ているわけだ。


僕が3D映画で疑問を持ったのは、
OL(オーバーラップ、ディゾルブ)だった。
場面と場面の間に使われていたが、
立体感の違うものがOLされていて、
溶け合ってへんやんけ、と突っ込んだ記憶がある。
2Dの演出で3Dをやった失敗例だ。
3D的にモーフィングすればよかった?
たぶん溶け合うということは出来ないのだろう。

3Dは、ピントを前後に合わせる時間も考えなければならなくなった。
つまり、逆に制限が増えたように思う。

2Dでは常識のナメ
(誰かが手前にいて、誰かが奥にいる構図。
手前はピントをぼかし、奥にいる人を強調する。
肩ナメは、誰か越しに誰かを撮る、会話の切り返しの基本)
も、
3Dでは気持ち悪い。

手前に目のピントが合わないからだ。
3Dではパンフォーカス(すべてにピントがあっている)
でないと気持ち悪い。

それは2Dには普通にある、
「あるものはフォーカスアウトすることで情報を捨て、
残ったものを強調する、省略強調技法」
を逆に捨てたことになる。


演劇における省略強調技法には、
スポットライトがある。
何かを当てて何かを捨てるわけだ。

しかしこれは3D映画では不自然なので、これも使えない。

つまり、3D映画は、
パンフォーカスは演劇で、
スポットライトは使えない自然なライティング、
という二重の縛りを受けたメディアであったのだ。


唯一、3D映画がまさるのはカメラワークだろうか。
クレーン、ドーリー、ドローンなど、
カメラが動く劇的な絵は、
演劇でも漫画でもできないことだ。

しかしそれはつまり、アトラクションだということになり、
現在3D映画はアトラクションに限ってしまっている。



映画は物語である。
その中でも、他人と他人のぶつかり合いを、
切り返しで描く物語が中心である。

3D映画でそれが苦手である以上、
3D映画は得意な「飛び出し」「カメラ移動」を使うことになる。
それは物語ではなく、
アトラクションであった、
ということであったのだ。



もし3Dに、「新しい物語の描き方」が発明されていれば、
3Dは2Dを拡張したものになった。

しかし3Dが物語を描く上では、
2Dより劣ることがわかってしまったのが、
これまでの3Dの歴史ではないだろうか?


「ストーリーものは2Dで十分」
という言い方は3D側からの傲慢だと思う。
ぼくは、
「ストーリーを描くには3Dでは不十分」
だと考えている。

アングルも切り返しもモンタージュも、
スポットライトも使えない3Dは、
ストーリーを語る道具が少なすぎる。
posted by おおおかとしひこ at 00:38| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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