2020年08月18日

何故設定だけではストーリーにならないのか

設定を考えることはとても楽しい。
それがどういうストーリーになるのか、
考えるだけでわくわくする。
だがそれが大変で楽しいからこそ、
それだけでストーリーになってしまう勘違いがとても多いと思う。

実際にやってみればわかるけど、
設定だけではまったくストーリーが書けないという現象がよく起こる。
何故か。


設定を使いつくしたら、それで終わりになってしまうからだ。

つまり、隠された設定を次々に披露して、
それが尽きたら終わりになってしまうのが問題なのだ。

ストーリーとは、現在や未来のことで、
過去ではない。
その過去を踏まえて、
今どういう未来のために何をするかがストーリーである。
そして、その行動の結果が起こり、
それがどういう次の展開になるのかがストーリーであり、
ストーリーはつねに
「現在どうなっていて」「次に未来をどうするべきか」で成り立っている。
「過去どうであったか」は関わってこない。

もちろん、一切関わらないということではない。
現在の状況や決断の原因にはなるかもしれないが、
結果には関係がない。
結果に関係するのは、現在の決断や行動であり、
過去ではない。

設定をつくって、それがストーリーになると考えてしまう人は、
そこを考えに入れていないと言えるだろう。
だからかっこいい、面白い、悲劇的な、ロマンチックな、
設定を披露すればストーリーになると考えてしまう。

それはつまり出落ちである。
過去の設定を披露して、それで何もしない人は、
出落ちであるということだ。


俺はこういう過去があるんだ、
実は俺はこういうことだったのだ、
俺は実は先にこうしていたのだ、
などはとても面白い。

面白いが、「で、次にどうする?」がない。
設定の披露でドヤでおしまいで、
その後の展開がない。

過去を自慢するおじさんと同じだ。
「で?」なのだ。
現在から未来に何をするかが問題で、
おじさんの過去自慢はどうだっていいのだ。


そういう人は困ったらどうするか知ってる?
設定を増やすんだよね。

披露しておしまいになってしまうことが分って、
じゃあどうするかというと、
披露する設定を増やすことで、
時間軸を埋めようとしてしまう。

時間いっぱいまで過去自慢をする、キャバクラのおじさんである。


それは間違いで、
「過去を明かして次に何をするのか」
「それはどうなるのか」
「次にどうするのか」
「それはどうなるのか」
という連鎖がストーリーであることに気づいていないから、
「ある設定を披露」
「次の設定を披露」
「最後の大掛かりな設定を披露」
を展開だと勘違いしてしまう。

それは全くストーリーとしては進んでいない。
転校生初日の自己紹介が長いだけで、
クラスに溶け込んだり、
友達になる過程が描けていないことになってしまう。


ストーリーとは何か。
ときどきそれは迷い道に入ることがある。

もし設定を披露している時間が長ければ、
「この間ストーリーは進んでいない」
と焦るべきだ。

設定披露の部分を赤で塗りつぶしたまえ。
それ以外が、ストーリーだ。
真っ赤な脚本はただの設定集であり、
ストーリーの展開や結末を面白おかしく描く、
脚本ではない。


設定がなぜわくわくするのだろうか?
「これを使って未来にどういうストーリーがあるだろうか?」
と想像力が膨らむからではないか。
それって出落ちなんだよね。

それを使って何があとに起こるか、
設定(過去)にない、次のこと(現在、未来)が、
ストーリーだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:44| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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