2020年08月25日

事件には興味、人には感情移入

ストーリーというのは、事件と人で語られる。

それには色んな入りこみ方があると思うが、
興味と感情移入と、区別することにしようか。


事件には、興味をそそられるべきであり、
感情移入というほどでなくてもいいと思う。

感情移入というのは特別な感情だ。
まるでそれが自分が抱えているような感情になる、
一体化のレベルである。

事件は、感情移入しなくて良いと思う。
たとえば、
今なら「コロナをどう解決するか」
「中国にどう責任を取らせるのか」
「第三次大戦の回避」
などは感情移入に値する問題であるが、
それらを事件として扱うべきではない。

なぜなら、感情移入すればするほど、
その解決法などわからないからである。
自分も解決できないほどの問題を抱えてしまうことは、
ものを書くときの得策ではない。

モテない人は、「モテない人が持てる方法」
という事件に感情移入するだろうし、
そういう作者は感情移入しながら問題設定を作ってしまうかもしれないが、
そもそも自分も解決していない問題が、
架空の解決などするはずがない。

仮に解決したとしても「架空の解決」でしかなくて、
解決にリアリティがなくなるだろう。

自分と近しい、感情移入してしまう問題を、
事件として扱うべきではない。
近すぎて解決できなくなる。


なので、事件として選ぶべきは、
「ふむ、なんだか面白そうだぞ」
というレベルにするのが妥当だろう。
感情移入して感情移入してどうしようもない問題ではなく、
理性のレベルで興味が引かれるレベルにコントロールするべきである。

だからこそ解決までが理屈が通り、
自分と近すぎないからこそ、
客観的な解決までの道のりを作ることが可能になると、
僕は考えている。


対照的に。

人物は、興味レベルではなく、
感情移入させるべきなのだ。

「興味深い人物像」なんてどうでもいい。
登場人物に感情移入して感情移入してどうしようもないくらいの、
感情を乗せて行こう。

これは、熱量と関係している。


つまり、
「熱量のある人間が、
理屈で解決できる事件を解決する」
の構造がベストだ。

「理屈で興味深い人物が、
理屈で解決できる事件を解決する」では熱量がなく、
「熱量のある人間が、
熱量のある問題を解決する」のはリアリティのある解決にならず、
「理屈で興味深い人物が、
熱量のある問題を解決する」はさらにおかしなことになる。


感情移入して、もらい泣きやもらい笑いをしながら、
つまりハートで感じながら、
詰将棋のように、理屈で問題を解決していくスタンスが、
一番おもしろいと思うよ。

感情移入に走りすぎれば、
問題と解決の柱(メインプロット)がいまいち面白くなく、
理屈や興味レベルに走りすぎれば、
感情の持てないただの報告で終わってしまう。

入り込み、満足するストーリーは、そうではない。



ということで、
入り込み方が、
事件と人物ではわけるべきだ。

そこまで自覚的にやってるか、
一度チェックしてみたまえ。
posted by おおおかとしひこ at 00:08| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。