前記事の続き。
「僕はマシュマロとクッキーが好き」に、
共感ではなく、感情移入させればよい。
「マシュマロとクッキーが好き」なのは、
設定である。
そう設定されているにすぎない。
ドラえもんがどら焼きが好き、と同レベルだ。
これを感情移入レベルに引き上げる。
エピソードを用意するとよい。
たとえば。
僕の小学校の転校初日、
不安だった時に話しかけてくれたのは隣の女の子。
僕はいっぺんで好きになってしまった。
彼女の好きなものはマシュマロとクッキーで、
僕は女の食べるものなんか好きじゃねえよ、
とずっと思ってた。
でも彼女の誕生日があって、
マシュマロとクッキーをあげようと思って、
僕は母の財布から盗んだ金で買ったんだよね。
彼女はそれを知らずに喜んで「おいしい」って言ってくれたけど、
僕はずっと後ろめたかった。
その子はクラスが分かれてそれでおしまい。
中学になってはじめてバイトで貰った金で、
僕はマシュマロとクッキーを買った。
あんまりおいしいとは思わないけど、
でも母の財布にその金はちゃんと返したよ。
今でも女の食べるお菓子は好きじゃない。
でもお菓子は何が好き?って聞かれたら、
マシュマロとクッキーって言うと思う。
僕が最初に、お菓子って意識したものなんだ。
Twitterに載せる文章量ではないが(笑、
こういうことだ。
「マシュマロとクッキー」ではなくても成立する。
ここになにを当てはめてもいい。
「僕」の好きなお菓子がなんであるかはどうでもいいが、
「僕」がそれを大事にしている気持ちはわかる。
それが感情移入だ。
だから、これが仮に映画で、
このあと「僕」が、大人になったあの子に再会して、
マシュマロとクッキーをどうにかして手に入れようとする場面があれば、
観客はとても思い入れがあって、
がんばれって思うよね。
あまつさえ、映画館帰りにマシュマロとクッキーを買ってしまうかも知れない。
今まで買ったことがなくてもだ。
この、「Aだと思っていない人に、Aだと思わせる」
が、感情移入の作用である。
「Aだと思っている人に、Aだと思わせる」は、共感だ。
共感はアテモン、
感情移入は創作である。
では問題。
僕の書いたものとは別のエピソードで、
「僕はマシュマロとクッキーが好き」
に感情移入させなさい。
「僕はマシュマロとクッキーが好き」の
感情移入エピソードを投稿させて頂きます。
僕がまだ幼いころ、母が難病にかかり程なくしてこの世を去った。
その日から僕は医者を目指すため勉強に明け暮れた。
中学に上がったころ、父が再婚した。義母は馴染もうと下手な手作りの
お菓子を僕によく振る舞ってくれた。
どうしても義母を母親として見れない僕は一度も口をつけず、わざと見せつける様にゴミ箱や三角コーナーに捨てていた。
それが二ヶ月ほど続いたころ、義母はお菓子作りを辞めた。
それからしばらくして、医大受験を控えた冬。徹夜続きでくたくただった僕。「それでもやらなきゃ」とペンを走らせている最中に義母が差し入れしてくれたのが、マシュマロとクッキーだった。
受験結果は頑張った甲斐あって、第一志望に合格。身内で一番喜んでくれたのは、うちのお義母さんだった。お互い顔をくしゃくしゃにして抱き合ったのは一生の思い出だ。
僕はマシュマロとクッキーが好きだ。
それは、二人目の母親が僕に込めた愛情の形だから。
僕の視点からの都合の良すぎる展開が気になります。
ドラマチックなタイミングだけの、天気の子のようです。
義母はお菓子作りをやめたのに、
なぜ大一番で都合の良いお菓子を出せたのか。
そこにドラマがあるべきです。
ご指摘いただいた点にハっとして恥ずかしい思いです。
想定していたよりも、とても難しいお題でした。
今の自分の実力では感情移入に足るエピソード作りは、
到底無理だなと痛感いたしました。
非常に勉強になりました。
今後も勉強させていただきます。
ご指導いただきありがとうございました。
小粋なエピソードづくりは、なかなかプロにも難しいと思います。
臆せずいろんなバージョンを作ってみることをお勧めします。
10バージョンくらいあれば1個くらい当たりがあるので、
数稽古はこういうときに生きてきます。
コツとしては、「そんなに好きじゃなかったんだけど、
こういうことで好きになった」という「変化」をエピソード中に入れることかな。
つまり小エピソードといえど、ストーリーそのものですね。
マシュマロとクッキーのエピソードを私も考えてみたので書き込ませて頂きます。
私は登山が趣味で、数年前のGWにも山に登って山小屋で一泊する計画を立てていました。
ところが休みの前日に急な仕事で深夜残業をさせられて当日寝坊、寝不足の頭で車を走らせるも渋滞に巻き込まれ、午前中には到着する予定が着いたのは昼過ぎ、おまけに他の登山客から「今日はこのあと天気が崩れるそうだからやめたほうが良い」と言われてしまいました。
ですが前日からのゴタゴタで苛立っていた私は「天気まで俺をバカにするのか!」と腹を立て半ば意地になって登り始めたのです。
降りてくる人々に逆らって一人歩いていると案の定空が曇りだしポツポツと雨が降り始めました。距離的に山小屋を目指したほうが良いと判断して前に進んだのですがとうとう雨は土砂降りとなり完全に登山道を見失ってしまいました。
気休め程度の木陰に身を隠して雨宿りをしましたが一向に止まずついに日没、ずぶ濡れの体は冷え切り携帯は圏外、何よりも行きの車で軽食を摂っただけで食料も持っていなかったので腹が減って仕方ありません。
私は自分の愚かしさを心底後悔しながら震えて夜を明かしました。
やがて朝になると昨日の雨が嘘のような快晴に、明るくなった周囲と地図を見比べてなんとか登山道に戻ろうとしていると私を呼ぶ声が聞こえました。
予め連絡をしてあった山小屋が私が到着していないことに気づき捜索をしてくれていたのです。
最後の力を振り絞って叫びなんとか救助された私、その時捜索隊の方が渡してくれたのが水筒とマシュマロ、クッキーでした。
スーパーに行けば数百円程度で買えるのでしょうが、あの味を私は生涯忘れられないでしょう。
以来私はよくマシュマロとクッキーを買うようになりました。
食べると焦りや苛立ちや思い上がりのような感情が消え、無事に生きていられる幸せを感じられるからです。
以上です
勝手に救助されただけで主人公自身は何もしてないんじゃないか?と少し思います。
ちょっと長いですね。
はしょってみると構造がわかります。
自分のミスで、山で遭難した。
死ぬ思いでたどり着いた山小屋で、
一日ぶりの食糧にありつけた。
それがマシュマロとクッキー。
ミスが何にもかかってないですね。
かかってれば行けそうです。
僕はマショマロとクッキーが大好きだと答えた
見ず知らずのあの子達を拉致監禁して
マショマロとクッキーと名付けた
僕はマショマロとクッキーが大好きだ
デスノートでいうとデスノートの効果は主人公と読者しか知らない 鬼滅の刃でいうと禰豆子が人間を食べないのは主人公と読者しか知らない
主人公と読者しか知らない事実とその事実を知らない脇役達との構図は、読者と主人公は事実を共有してるので、
主人公に感情移入してると言えるんでしょうか?
前に仰られた感情移動ことなんでしょうか?
お題の主旨と違いますが、申し訳ありません。
「観客と劇中の誰かしか知らない秘密」は、劇的アイロニーという言葉で、
作劇論では昔から言われてきました。
そして大抵秘密は、暴露されないこととの綱引きになるので、
「暴露される瞬間までの危うさを楽しむ」ものになります。
これと感情移入は異なります。
「誰もがその立場になったとしたらその感情がわかり、
あれはまるでその世界線の自分だ」
と思えることが感情移入です。
この場合、拉致する気持ちに「おれもだ」と全員が感情移入できればOKです。
(ちなみに「ネヅコが人を食う/食わない」は劇中では秘匿されるべきドラマになってないので、
ただの設定だおれです)
また、劇的アアイロニーは、感情移入には大抵なりません。
秘密は大抵「よくないこと」なので。
一般的に、観客は良い人にしか感情移入しません。
もし悪いことに感情移入させられる
(誰もがその悪いことを自分もするだろうと思う)ならば、相当の手練れですね。
電車に乗っていて痴漢に間違われた冤罪なら、感情移入になり得るんですね。大岡さんありがとうございました。
ありがとうございます。
自分でも何か上手くないなと感じはしたのですが腑に落ちました。
短くまとめる技術も含めて色々考えてみます。
そうですね。いい例です。そこからマシュマロに落とすのは難しそうだけど。
人間は正義の側に感情移入するように出来ていて、
Twitterの正義病と関係するのではと考えてますが、
まだうまく論じられません。
ただいい子ちゃんばかりだと教科書的な詰まらなさというのもあって、
反社会的な方がリアルやろという逆張りも存在します。
こちらに上手に感情移入させたのがデスノートですね。
(ライトは社会正義の実現という、歪んだ正義ながら、
正義であるのはポイント。必殺仕事人と似た傾向)
お話とは要素間の関係のことであります。
出てきた要素を余すことなく使い倒す、
なんなら二度三度と使うとよいと思います。
それをうまく時系列に乗せるとお話になります。
興味が惹かれてしまったので「僕はマシュマロとクッキーが好き」の感情移入エピソードを投稿させて頂きます。
僕はマシュマロとクッキーが好きだ。
それが、家族や周囲が僕に持っている印象。
まあこの二つばかり作って食べているのだから、そう思われても仕方ない。
毎週毎週味や形を変えながら作り続け、改良を重ねたレシピがそろそろ百に到達しようという状況でもあるし。
ただ好きなのかと問われると、多分とても考えこむ。マシュマロとクッキーという変な沼に、うっかりはまってしまっただけなのではないかと自分では思うからだ。
菓子作りが好きだった姉に巻き込まれてマシュマロを初めて作ったとき『なんでこの材料からこれができあがる』と思ったことを覚えている。
作るために食べない片栗粉が大量に必要なお菓子なんて、ほかにあるだろうか。
卵の白身があんなふわふわしたものに化け、ゼラチンなどというもので固まる。
わけがわからない。最初にあれを発明した人は何を考えてそうしたんだ。
あれを見て食べてしまったとき、多分僕は沼に足を踏み入れてしまったのだ。
学校から本を借り、ネットで調べ、そうしてマシュマロばかりを作る僕を見かね、別のも作ったらと母が教えたのがもう一つの沼、クッキーだった。
あれこそ本当に奇妙な代物だ。
小麦粉と卵とバターと砂糖、わずかに牛乳。なんだいつものパンケーキかと思っていたその材料が、粘土のような形になって、その黄色い粘土がクッキーに化けた。
僕らの料理を見ていた姉が「こんなものもあるよ」と作ったクッキーは、同じ材料だったはずなのにまるで違う形と歯ごたえだった。
堅さだけでも違う種類が数多くあって、色や形、味まで含めたらどこまで違うものができるのだろう。
その奇妙さにとりつかれた僕は、そうしてクッキーの沼にも取り込まれた。
毎週作って食べて、研究のためにいろいろなマシュマロとクッキーを食べる僕を見て、周囲はよっぽど好きなのだねと笑う。
正直、究極に自分好みで食べておいしいと嬉しくなるものに出会ったことはないのだけれど。僕が沼にはまりつつこの二つを作り続けるのはひょっとして、いつかその嬉しい出会いを見つけるためなのかもしれない。
だから僕はマシュマロとクッキーが好き。
普通の好きじゃないのかもしれないけれど、それが僕の好きという形。
こんなのはいかがでしょうか?
なげえ…そもそもこれTwitterの投稿から始まったのだ…
で、これは描写にすぎず、感情移入ではありません。
主人公の興味を持った部分、
「意外な材料からまるで窯変するかのように、
別物ができあがる」ところを、
よく知らない我々が興味を持てないからです。
ここがもう少し面白おかしく書けていれば何かあったかもです。
また、こういうときは全然違うところから例え話をする手があります。
僕はね、変身ヒーローが好きなんだ。
今の僕がたいしたことなくても、
あんな風に変身したら活躍できるだろうなあと思ってしまう。
お菓子の中でも、変身ヒーロー並みに、
原材料と出来上がりが違うやつ知ってる?
それがマシュマロとクッキー。
それはね(簡単な製法と変身のさま)なんだよね。
マシュマロとクッキーは、
僕にとっての変身ヒーロー。
こいつを食べてたら、意外な活躍ができそうで。
いうまでもなく、感情移入に至るのは、
「今の僕がたいしたことなくても、
あんな風に変身したら活躍できるだろうなあと思ってしまう」
の2行です。
「Aに興味がない大多数の人に、Aを好きになってもらう」
理由をつくらないといけません。
それはたぶん、マシュマロとクッキーとは関係ない要素で、
好きになってもらうことだと思います。