人間の本質には暴力がある。
マウントも暴力衝動のひとつだ。
暴力とは物理接触と関係なく、
「気に入らないやつを思い通りにしたいこと」だ。
正義とは、理由を与えられた暴力にすぎない。
暴力衝動を、正義という言い訳で発露するのである。
刀で人を理由なく切ったら暴力だが、
理由があれば切る様を残酷に楽しみ、応援できるのである。
時代劇とはそうした暴力ショーである。
罪人を吊し上げるのは、正義でありかつ暴力である。
Twitterがそれを可視化しはじめた。
そして、正義とは相対的であるというのが21世紀の発見だ。
悪がいるのではなく、正義と正義、大義名分と大義名分が、
戦争をしあう。
ゆえに、人は、相対的に暴力を振るい合う。
これをまとめたのが神という秩序で、
宗教戦争が起こり、
神は死に、理性がこれに勝るとされた。
もう一周これをやるのかね?
二周目は違うエンドに行くのかね。
最近新作のヒーローものを書いた。
このことをずっと考えていて、
小さな村がたくさんあるような世界観になった。
人類は、小さな村までしか認識の範囲がないと思うんだな。
力無き正義は無力である。
正義なき力は暴力である。
力のある正義は、正義付きの暴力なんだよな。
正義や悪や暴力や力などについて、
人類は再び更新を求められているような気がする。
そして変わらないのは、
暴力は気持ちいいという内部の衝動だろう。
2020年08月28日
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