2020年08月31日

マスコミュニケーションと少量多品種生産

映画やドラマはマスコミュニケーションだ。
だからお金が集まるのだ。
ターゲットを限れば限るほど、パイは小さくなるのだ。
単純な話だ。


ご存知の通り、僕は今自作キーボードにはまっているのだが、
これはプロダクトとマスコミュニケーションを考える上で、
非常に重要な示唆がある。

マスの、規格化されたキーボードは使いづらい
→じゃあ何が使いやすいのか
→個々人によって使いやすさや用途は違う
→ニッチ企業がニッチなキーボードを出した
→それでも個々人のニーズには答えられない
→さまざまな個人制作の自作キーボードキットが生まれる
(すでに100は優に超えたろう。海外も含めれば200は超えたろう)

価格はどんどん上がっていく。
生産数が少ないからだ。
普及キーボード2000円、ニッチキーボード1万〜3万、
自作キーボードは2万〜5万といったところか。

入手困難性も上がっていく。
それをピンポイントで求める人が少なく、
また、需要が常にあるとは限らないからだ。

生産者は大企業から小会社になり、
自作キーボードに至ってはただの個人である。
同人ハードと言われるゆえんだ。

キーボードは毎日触れるものだし、
手の大きさや器用度も違うし、
好みも違うし、用途もヘビーユーザー度合いも、
何もかも違う。
だから、
どんどんニッチになって、
世の中に数台しかないキーボードなんてザラなんだよね。

同じキット(基盤)でも、キースイッチやキーキャップの違いで、
全く打鍵感は変わるから、
多分世界に同じ自作キーボードは2台ない。


さて、映画の話である。

映画もこうあるべきか?

いっとき、やたらとマーケティングマーケティング言ってる時代があった。
僕はずっと警告していたが、
それはパイを狭める自殺行為でしかなかった。
予算は下がり、表現できる世界は狭くなった。

自作キーボードは、需要と値段は反比例だ。
レアな方が高い。

だが映画は逆だ。
レアな方が(予算が)安いのである。

つまり、マーケティングで、ニッチへニッチへ行くと、
先細りしかない世界なのだ。

だから僕は、
「すべての人が楽しめること」を重要視する。

なんのことはない、
ただのオールターゲット映画なだけだ。


もちろん、
作風によってある程度指向性があるから、
真のオールターゲットとはいかないだろう。
しかし、「出来るだけ多くの人を、深く楽しませる」
ことが映画には重要だ。

その鍵を握るのは、何度も述べている通り、
共感ではない、感情移入なのである。


このカラクリを知らないコンサル風情が、
映画会社をだまして、マーケティング言い出したのだろう。
焼け野原になったときは、コンサル会社は逃げ出して、
次の畑を焼いている。

だまされた映画会社が悪いんだけど、
それは、このことをはっきりと違うと言えるだけの、
知性と理論がなかったからだ。



ということで、
映画は常にマスコミュニケーションである。

なるべくたくさんの人を、
ものすごく深く、
楽しませるのである。
posted by おおおかとしひこ at 00:59| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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