ストーリーを書くことが難しいのは、
「次どうなるのか」と、
「結局なんだったのか」の両立が難しいからではないか。
「次どうなるのか」だけを書くだけなら楽だろう。
とにかく興味の持てる何かを起こして、
それはどうなるんだ?というヒキをつくり、
その先を書いていけばいいからだ。
そのことが核心に迫ってきたら、
また別の事件を起こして、
その先を楽しみにさせればよい。
それらが積もり積もってきたら、
「実はアレのアレはコレだったのだ!」
とさらに深くに触れて、
真相を創作していってもよい。
これらはストーリーの前半戦である。
ここで止まる人は、ストーリーの後半が書けていない。
「次どうなるか」の興味は、
「結局、今展開してるこれは、
なんかのか」へと移行する。
ある高校に入学する。
友達、勉強、部活、恋、先生、文化祭、体育祭、受験。
これらの色んな目先のことにとらわれていても、
人は総括したくなる。
「高校生活とはなんだったのか」を。
「それは、青春そのものだった」と総括する人もいるし、
「ただの空騒ぎで成長には繋がらなかった」とする人もいるだろう。
その総括は自由だが、
その総括に個々のものが関係していることが必要だ。
つまり人は、
個々のものを並べられると、
「それら同士の関係」を総括したがる生き物である。
一個か二個では無理で、
三個以上のときにその機能が発動するように思う。
それは人間の、
「たくさんのものをまとめるときに、ラベリングする」
機能なのかもしれない。
二個の間に関係性があれば、
三個目を予測する。
それが当たれば、その関係性は確かだと確信する。
それが違うと、「じゃあこの三個の共通点はなんだろう」
と推理をはじめるわけだ。
ストーリーの前半戦で、
「次どうなるんだろう」を仕込むとき、
一個二個のときまではまだその推理は起こっていない。
三個目が来た時、
人は推理をはじめる。
この全体はどういうことなのだろうと。
四個目、五個目と来たときに、
その推理があっていればその線でものを見ていく。
それが予測を外れていくと、
推理を修正する。
また、推理の上を行き、実は全てはこうだったのだ、
などになると、やられた作者すげえとなる。
あるいは、すべての要素がある結論に向かって、
無駄なく上手に並べられているとき、
美しさを感じる。
ストーリーの前半戦が、
中盤から後半に至るとき、
このようなことが観客の中で起こっている。
前半戦では、
刺激の強い「次どうなるんだろう」がありつつも、
それが三個くらいあると、
「それらを結ぶ線はどういうことなんだろう」
を推理、理解しようとする作用が起こる。
このとき、
「結局これはなんになるんだろう」
の全体像予測が常に起こっているわけだ。
ストーリー後半戦とは、
その予測全体モデルと、
ストーリーが合っているかどうかを見ている、
と言っても過言ではない。
予測通りであれば満足するし、
予測を下回れば不満だし、
予測が嫌な方向に外れればクソ作品になるし、
予測をうまく裏切ってくれればどんでんで関心するし、
予測を遥かに超えた満足だと、傑作になるわけだ。
ストーリー作りをするときに、
ではどちらからつくるべきか?
「次どうなるか」と「結局なんだったのか」と。
僕はこれらは両輪であり、卵と鶏だと思う。
どちらかを先に作り、他方をあとで作ることは難しいと考える。
冒頭や初期の方の「次どうなるか」だけを考えて、
実は全体はこうでしたを後付けで考えて、
「結局なんだったのか」を総括することは難しい。
「結局なんだったのか」の全体像を先につくると、
どの何も知らない時点からはじめて、
次どうなるかハラハラしながら見ていくスリリングさをつくることも難しい。
(作者自身がネタバレしてるからね)
理想のやり方はふたつある。
刺激的な「次どうなるか」を思いつき、
それらの連鎖を組んでいるうちに、
「結局なんだったのか」の全体像が浮かび、
うまく収束するやり方。
「結局なんだったのか」の全体像がなんとなく出来て、
それをはじめる最も刺激的な入り方、
「次どうなるか」の連鎖が生まれるやり方。
前者は場面先攻テーマ後攻、
後者はテーマ先攻場面後攻、
といったところだろうか。
どちらが正しいとかはない。
どちらが向いてるとかもないかもだ。
ある一方を試してダメだったら他方を試すと良い。
これは、プロット段階でやることだ。
冒頭の場面をハッキリ書いてしまったあとや、
テーマをハッキリ決めてしまったあとにやることではない。
もっと曖昧な状態、過疎性がある状態のときに、
揉める状態でやるべきことだ。
何度も何度も書き直し、全体が見えてくるまでやるような、
ストーリーが粘土状のときに考えるべきことである。
逆にディテールが決まってからやると、
それ合わせに限定されるため、
コントロール能力が要求され、
自由につくるよりも狭いものにしかならない。
そのディテールを壊して自由に出来るように考えたほうが、
広くできるだろう。
「次どうなるか」と、
「結局なんだったのか」。
これら両者を同時に産むことに慣れることが、
ストーリー作りに慣れることだと、
僕は思う。
これはプロットをどうやって組むのか、
どうやって組み直すのか、
ということとも関係している。
どちらかだけを作っていても永遠にストーリーにはならない。
2020年09月04日
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