それは想像力によるしかない。
経験や取材は後押ししてくれるが、
だからリアルなのが書けるかというとまた別の話だ。
リアルを体験したこともないし、
かつ出来上がったものが嘘くさいのは論外だ。
せめて取材しろこの野郎、と言われて終わりだろう。
だからといって取材すれば書けるのか、
というと必ずしもそうではない。
取材したって下手なやつは下手なままである。
むしろ膨大な情報量に振り回されて、
焦点の定まらない消化不良を起こすこともある。
取材したのでかえって失敗する例だ。
だから、
取材や体験は、やっておくに越したことはない、
くらいのレベルだと思う。
ありありとそこにあるのが想像できるならば、
取材はむしろ冷や水で、最悪妨げになるかもしれない。
逆に全く想像できないなら取材したほうがいい。
ありありとそこに想像できるが、
ほんとのところを知らないので取材して、
リアルを超える、その作品にしかない新しいリアルを作れれば、
それが最高である。
むしろ、創作とはそのためにあるのであり、
リアルの後追い再現のためにあるのではない。
写真が出てきたときの絵のことを考えよう。
まるで写真のように描く絵は廃れた。
そうではなくて、
そこにはない新しいものであるとか、
既存のものなんだけど写真には撮れない空気感であるとか、
リアルにないものを、
絵には求められるようになったと思う。
写真があるのに、
写真から絵を起こす意味はない。
リアル世界があるのに、
リアル世界を転写する物語に意味はない。
そこにそれが本当に起こっているように見えればそれで良く、
リアルにそれを体験した人にとっても、
リアル以上の何かを体験させられるのが、
すぐれた創作である。
よく、人殺しをしないと殺人を書けないわけではない、
などという。
しかし殺人に至る心理や、
殺人の手口や、
終わった後の逃走や、
捕まったときの感覚なんかは、
取材をしなくても書ける。
そして、それは取材のリアル以上にリアルでならなければ、
書く意味などないのだ。
本当に起こったことを書くのは創作ではない。
本当には起こってないことを、
まるで本当に起こったように書くのが、
創作である。
よく取材し、よく想像して、
取材のリアルを飛び越えることだ。
取材は、ジャンプのための足場であり、
落ちそうになって掴む崖ではない。
2020年09月08日
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