2020年09月09日

「リアル」の小史

ハリウッドとかはおいといて、
邦画で「リアル」とされたものはなんだろう。
その歴史を少々辿ってみる。


その昔、60年代くらいは、
映画はスタジオで撮影されるものだった。
美術セットをつくり、照明し、録音環境が整ったところで、
舞台をつくるようにつくっていた。
いまだに撮影スタジオは、「ステージ5」
のように番号をつけてステージと呼ばれる。

しかしカメラをロケへ持ち出して、
外で街を撮ろうとしたのが、
ヌーヴェルバーグ、ニューシネマの流れである。

リアルな街、照明を当てられない自然光
(それはどんどん動いていくから撮り直しがしづらい)、
録音環境ボロボロの、
ロケというものが映画をリアルへ近づけた。


邦画では、
黒澤が時代劇に「リアル」を持ち込んだ。
それまで舞台の延長だった、
きちんとした衣装やメイクに対して、
汗や土で汚れた、お行儀でない、
ギラギラとした生命そのものを描こうとしたわけだ。

つまり、リアルの歴史とは、
それまでの映像のお決まりの常識を、
こんなの嘘だ、とひっくり返してきた歴史だとも言える。


僕が最初にリアルタイムで意識したのは、
森田芳光「の・ようなもの」における、
1カット演出かな。
クライマックス、10分間カットを割らない長回し。

カットを割るのは演者のテンションを切るから、
舞台のようにその空気を止めないままやる、
というのがリアルだとされたのだ。

(今でも手品を見せるときに、
「ノーカットであることをご確認ください」
なんて出たりする。
カット繋ぎの編集は嘘で、ワンカットがリアルだという考え方だ)

同時代、
相米慎二もワンカットワンシーンの名手だった。
実際には、新人アイドルばかりを押し付けられていたから、
カットが変わったとき演者のテンションが変わってしまう
(下手なのでコントロールできない)ことを防ぐために、
ワンカットで撮っていたらしい。
上手いも下手も、一続きのそれをリアルだとしたわけだ。

当然これは、「ハキハキとしたアナウンサー的な発声法よりも、
普通にしゃべるボソボソとした感じ」
がリアルだという信仰を生む。

その嚆矢は浅野忠信か、松田優作といったところだろう。

ボソボソ喋るもんだから音楽が入れづらく(声が負けるので)、
邦画は、ボソボソ、ワンカット、音楽なしが、
リアルとされた時代が80年代くらいから続く。
(で、予算もないのでフィックスばかりになったのだと思う)

これにロケという合わせ技で、
リアルな場所で撮影する、というのがリアルだとされた。

そのうち役者では作り物くさいから、
そこで働く人を演者に使うという流れも生まれる。
(「少年時代」では、舞台となる富山県の子供達を、
半年くらいかけて集めたそうだ)
彼らは演技は素人だけど、
そこに生活するリアル感はそのままだから、
そこで生きているリアルがリアルだとされたわけだ。

今でもたまに(特別な演技の訓練をせず、役者で生活していないという意味で)
素人が使われたりするよね。
(「フルメタルジャケット」のキチガイ軍曹は、
ほんとの軍隊の人で役者ではないそうだ。
あの狂気の訓練は、リアルらしい)


次のブームは、
岩井俊二、その弟子の行定勲の、
手持ちブームかな。

ドキュメンタリ的なカメラは、
フィックスでなく手持ちで撮られる。
その感じである。

フィックスはまだ演劇的つくりものだ、
手持ちがリアルなのだという流れだ。

行定勲なんか同じシーンを一時間手持ちで回して、
あとで1分に縮めるような、
ドキュメンタリ的な撮影をしてたらしい。
(スタッフには嫌われる。
そりゃそうだ、監督なんだから何がやりたいかいってくれよ、
あんなんアドリブ任せやないかと揶揄された)

で、台本なしがリアルになる。

人はわかっている運命を生きていないし、
決められたセリフは嘘くさいという考え方だ。

しかしながら、
アドリブで撮られたいくつかの映画は、
瞬間瞬間はみずみずしいものの、
積層された一本の映画としては惨憺たる出来である。
(石川寛「tokyo.sora」、河瀬直美「七夜待」など)
微分は積分にならないことがわかったようなものだ。

そこで、
大きくは台本を用意して、
芸達者な役者を集めて、
ある程度アドリブに任せて空気感をつくり、
カメラは長回しで手持ち、
出来れば複数台カメラを回して美味しい瞬間は逃さない、
音楽は適宜流すが、大抵はシーン繋ぎ用、
なやり方へと、
現在は収斂したように思う。

是枝裕和のやり方だ。
ドキュメンタリ出身が、映画と中間点を取ったやり方のように思う。
出世作「ワンダフルライフ」のインタビューシーンがまさにそうである。



で、ここまで「リアル」を追求した結果、
「もうリアルの距離感はいいからさ、
とんでもなく面白い嘘を見せておくれよ」
という反動になっているのが、今な気がする。

日本人のリアルなんて、
実はたいして面白くないな、
なんてことになっているのが現在だ。

どこにファンタジーを置くか、
その軸足が問われているといっても過言ではないと思う。


じゃあきちんとカットを割って、
ロケとセットを上手に使い分けて、
きちんと聞こえるようにセリフを言い、
現在の日本のリアルではない、
ある架空のリアルに従い、
アドリブではなく計算され尽くしたエンターテイメントで、
しっかりとしたもの、
を作ればいいだけだ。

残念ながら、それをやるには、
「リアル」という名のダンピングで壊滅的になっている現場の、
資金力が足りないように思う。

セットをつくりたいのに職人がいない、
きちんとセリフを発声できる役者がいない、
オーケストレーションできるのがN響しか残っていない、
計算され尽くしたエンターテイメントであるところの、
脚本がない。


ということで、
その中心部であるところの、
脚本こそが求められている。

ほんとのリアルなんて、スクリーンじゃなくて肉眼で見ればいいんだ。
ブラウン管じゃ分からない景色が見たいとプリプリが言ってから30年たった。


フィクションに求められているのは、
「そこにしかない新しいリアル」だと僕は思う。
posted by おおおかとしひこ at 12:56| Comment(3) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
リアルな住人を出演させる手法は、ヨーロッパだと少なくとも1970年代にはあったやつですね。
やっぱりヌーヴェルヴァーグのトリュフォーですけど、『トリュフォーの思春期』(この邦題は本当になんとかしてほしい)で殆ど素人の子供を選んで実名で出演させていました。
内容は完全な群像劇で、
映像はチャーミングだけど散文的で、
ドキュメンタリー的だけど構造がなくて、
オチの体裁を付けるために付け足しのようにラストで本業の大人の役者にトリュフォーが言いたかったテーマを演説させているという状態で、
やっぱり素人を出演させて劇を構築するのは根底から不可能なんだなーと思わされる内容でしたが(でも独特の空間の魅力はある)。
Posted by 高城 at 2020年09月10日 22:24
高城さんコメントありがとうございます。

子供はそもそも「確立された子役」が滅多に手に入らないので、
そのまんまを使うことが世界的に多いでしょうね。
芦田愛菜クラスは10年に一人だし、
残り9年は子役は不作だろうし。

そもそも、「台本に沿って架空のストーリーを演じる」
ことそのものの難易度が高いのは、
そのへんに沢山いる大根役者を見れば明らかです。

ドキュメンタリーは、
ストーリーであるところの間接話法と違い、
直接話法が使える(テーマをナレーションなどで語る)ことが出来るので、
トリュフォーも勘違いしたのでしょうかね。
「大人は判ってくれない」のラスト、
無言にしたのもその反省から来てたりして。
(無言の方が想像が広がる)
Posted by おおおかとしひこ at 2020年09月10日 22:40
調べたら、「思春期」は「大人は判ってくれない」よりずいぶん後の映画でした。
子供を撮ってるうちに何かできないかと作りはじめたものの、
結局何にもならなかった、という落ちなのかもです。
Posted by おおおかとしひこ at 2020年09月10日 23:09
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