2020年09月05日

【薙刀式】リズミカルかどうかは、僕はどうでもいいようだ

ordinary manさんのツイートから。
>新下駄はやっぱり長距離走という意味ではそこまで適性が高くないんじゃないかって感じる部分が若干あるけれど、リズミカルに打鍵を楽しんで打つという意味においては適性が高いから、自分に合った配列だなって感じる

ふむ。
「リズミカル」は僕にとって邪魔だな、
と今はっきりと自覚した。


何度も書いているけど、
僕には脳内発声が、書くときも読むときもない。
勿論意識すれば脳内発声はできる。
ただ意識をしてないと、音は鳴らない。

僕にとって書くこととは、
音から切り離された行為で、
むしろ音と関係ないことをする行為だ。

そこに音が入ってくるととても邪魔だ。

僕の脳内言語は標準語のようだ。
しかし喋る言語は標準語と関西弁を適宜切り替える。
たまに関西弁で書くときもあるけれど、
関西弁は完全に音に依存したイントネーションもあるので、
「こういう風に発音するけど、
文字としてはどう書いたらええねやろ」
と迷うことがよくある。
「ええねやろ」「ええんやろ」「ええねんやろ」「ええのんやろ」
で今も迷った。

ここでブレーキがかかるので、
僕が書くときは音が鳴らないほうがデフォルトのようだ。


なので、リズミカルとか高低とか、
1モーラなどの、音の要素は、
僕にとって邪魔のようである。

1モーラ1アクションの薙刀式は、
音の要素というよりも、
清音を拗音化する特殊操作だと僕は考えていて、
「音と打鍵の一致」については特にどうでもいいようである。


それは、手書きで文字を書いているときの感覚と同じだ。
ひらがなだって画数が違うから、
もともとひらがなは等速で書けない。
「し」は速く書けるし、「ふ」は少しかかる。
漢字だって、「一」は速いし「鬱」はかかる。
だから僕にとって、リズミカルであることはどうでもいいみたいだ。

この手書きの変速リズムに打鍵の変速リズムがあうべきだと、
どうやら僕は考えているようである。

理想は、「頭の中の概念の速度」と、
手の打鍵の速度が一致していることだと思う。

リズミカルであることは、思考のリズムを強制されるように僕には感じるので、
そこは逆に苦痛だ。
(リズミカルな思考のときにリズミカルに打てないのも苦痛だろう)


想像だけど、
新下駄のようなリズミカルな配列が好きな人は、
脳内発声派なのではないだろうか。

親指シフトのリズミカルさを考えたときにも、
そのことを強く思った。
「濁音後置で2打かかるJISカナにくらべて、
1アクションで濁音を打てる為、
日本語のリズムに合っている」
という触れ込みのはずだ。
それで獲得されるリズムって、
そもそも一文字一拍を延々繰り返すことでしかなくて、
喋る時ってそれよりも速いところと遅いところあるよね、
間もあるしなあ、なんて変速を前提に僕は考えていた。

qwertyローマ字は明らかに日本語のリズムで打っていないが、
僕は脳内発声がないので、
指の運動の不合理さのほうが気になった。


長年脳内発声なしの手書きをやってきて、
それをどうデジタルにコンバートするか、
ということでカタナ式と薙刀式ははじまった。
その出自ととても関係しているように思われる。

逆に脳内発声のある人が薙刀式を使うとどうなるのかしら。
SandSや連続シフトが、
音的に直感的じゃなかったりするかもなあ。
posted by おおおかとしひこ at 11:26| Comment(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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