2020年09月08日

なぜ米倉涼子の楽天モバイルCMはうるさいのか?

表現に関わることなので脚本論にて。

最近の楽天モバイルがうるさいとブーイングだそうな。
うちはもうTVがないのでネットで見てみた。
技術レベルでいうと、音量がメーターを振り切っている訳ではない。
しかしなぜか煩く感じる。

これは何故か?シンキングタイム。


ひとつには、間がある。

トップの外人のジングル「楽天モバ〜イル!」と、
次の米倉涼子の喋りまでに無音がある。
また米倉涼子の喋りは、
一塊は叫んでいるが、その前後は間で無音だ。
(人間は息継ぎしないと沢山喋れない。
しかしCMは、その息継ぎをカットを割って縮めている)

つまり、100-0-100-0-100-0…
のような音構造になっていて、
静かになったと思ったらマックスに、
ということが繰り返されている。

80の音が鳴りっぱなしに、
あるいは、100の音が鳴りっぱなしになるよりも、
煩く、不快に感じることだろう。


しかし問題はその技術的なこと(ガワ)ではなく、
中身にある。

あまりにもコマーシャルメッセージがストレートすぎて、
「知るかボケ」になるからだ。


日本人の礼節はどこへ行ったのか、
と思わせるほどに、
下品なストレートトークしかしていない。

だから不快なのだ。


全盛期のCMはこうではなかった。

TVをお楽しみのお茶の間のみなさん、
ちょっとお邪魔しますよ、
ただ土足で上がるのもなんなので、
ひと芸しますね、
ほうら面白いでしょう、
これで私めの話、聞いてくれませんかね、
なあに一行で終わりますよ、
楽天モバイルね、安いんです、
ありがとうございました、
お口直しにちょいギャグやっときますね、
ではまたお会いしましょう。

のように、
土足で上がらないことを美徳としていた。

ところが楽天モバイルは、
この慎みや芸が一切ない。
京都の文化と土人の文化のようだ。
ひと芸やってからこっそりと脇腹をくすぐるのが洗練された文化だとすると、
土足でツカツカと入ってぶん殴るほどに、
何もしていないのが楽天モバイルCMだ。


かつてTVCMは、日本の文化の最先端にいた。
それは、そのお茶の間にどうやって上がり込むか、
という芸を競っていたからだ。
オモシロコント、感動、オシャレ、キャラもの、ダンス。
そしてそれをやった理由が伝えたいサービスや商品、という見事な落ち。
その創意工夫のことを、「企画」と言った。

企画は星の数ほどあり、
どの方向からみなさんの心にお邪魔するか、
ということをみんな知恵を絞っていた。

ところが楽天モバイルには企画がない。

言いたいことを有名人に叫ばせているだけ。

だから不快なのだ。

お前ちょっとは芸をせえよ、と。


中身が純度100のコマーシャルメッセージだ。

企画とは、90の芸に10のメッセージを忍ばせることだった。

だから我々は、90不快になる。

このむかつく中身に、ガワも不快な構造。
炎上しないはずがない。



表現とは、引き込むことであって、
押し付けることではない。

そよ風が吹いた、パンツ見えそう、と引き込むのが文化であり、
くさいまんこを初手で押し付けるのは土人である。

いや、土人や猿ですら、独自の洗練された文化を持つから失礼を詫びる。
虫ですら社会的文化を持つから、
そうだな、ミジンコくらいだな。


かつてTVは文化の最先端で、
そこの15秒を頂くからには、
そこだけミジンコであることは恥だとされた。

だから洗練された文化の芸が百花繚乱で、
それが僕の愛したTVとCMの関係だ。
(80年代からリーマンショックくらいまで)

貧すれば鈍する。

それを、楽天モバイルは地で行っただけのことだ。


問題は、これが一人によってなされたことではなく、
関わる人100人や企業単位くらいの集団でなされた、
愚行だということである。

誰もおかしいと思わなかったのか。
誰も恥だと思わなかったのか。

文化の失墜、ここに極まれり。

そりゃ本も音楽も売れないわな。

これらに対する反応が、「不快」だというのも動物的反応すぎる。
「あまりにも芸がない子供のやり方」だと、
文化の側から否定するべきだろう。



作品とは何か。

最終的に押し付けるにしても、
どううまく引き込んで、
結論がまるで自分の発想であるかのように、
うまく気持ちを誘導するものをいう。

つまり、高度な洗脳と同じ形をしている。
それが文化であったことが、
なくなってはじめて理解できる。


楽天モバイルCMは、ではどうすればよかったのか?

「新しい叫び方」という芸をするべきでしたね。
恐い有名おばちゃんが目をひんむいて叫んでも、
新しい叫び方でもなんでもなかったのだ。

狼で遠吠えをするとか、
すごい低音だけで叫ぶとか、
すごい高音だけで叫ぶとか、
ホーミーで叫ぶとか、
今まで見たことのない叫び方の発明が必要だったろう。

そもそも、中身(企画)が、「叫ぶ」だけな時点で、
なんとでも工夫のしようがあるだろうに。
posted by おおおかとしひこ at 12:17| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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