2020年09月08日

誰かを救うことは、誰かを救わないこと

表現とは何か、もう少し考える。

楽天モバイルCMを少しだけ擁護すると、
TVやCMにどんどん表現規制がかかっていて、
あとは叫ぶくらいしか企画がない、ということだったのかもしれない。


逃走犯がシートベルトをしてないと放送できないらしい。
不良だという表現で喫煙シーンはできないらしい。
(そもそも喫煙シーンは放送できない。
これが昭和の再放送を阻む原因だ)
酒を飲むシーンは8時以降でないとダメらしい。

人は殺せない、人は傷つけられない、
辛いシーンは「それを思い出す人が不快に思う」からダメ。

最近ビールCMの「ゴクリ」が禁止になった。
放送禁止用語は日々増えていく。
(ちなみに公権力による禁止ではない。放送局基準の自粛である)

忖度が増え、あれもやらないこれもやらないになった。
炎上リスクを避けることだけが目的になった。


じゃあ何をすれば表現になるんだ?


表現とは、マイナスからプラスへの跳躍をいう。
だから希望があり、人はポジティブになる。

マイナスがないプラスは跳躍ではない。
プラスからプラスに行ったら、
勝ち組の戯言だ。

表現は必ず誰かを傷つけるナイフだ。
ただ、沢山の人を救う。

救うという美味しいことだけに目を向けて、
傷つける責任を取れないならば、
表現をする資格などない。


日本企業は萎縮して、
責任を負うどころか、逃亡するようになった。
言い訳ばかり事前にして、
なるべく炎上しないような生き方を選んだ。

それは表現ではない。


誰かを救うのが表現だ。
誰かを救うことは、救わなかった人がいるということだ。

表現者たる者、その覚悟で表現をするべきだ。

楽天モバイルは何を表現したかったのか?
自社アピール100でしかなく、
それ以外に何を表現したかったのかが問題だというのに。
posted by おおおかとしひこ at 12:31| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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