2020年09月10日

デジタルは人を幸せにしない: 点の記憶

プルースト効果という心理学の効果がある。
というか、実際は記憶のことだから認知学かもしれない。


ある匂いを嗅ぐと、それと関連する、
風景や音や手触りを思い出すという効果だ。

それと同じことを描いたプルースト「失われた時を求めて」から命名されたらしい。

つまり、記憶というのは、
単独の感覚ではなく、
五感と結びついてネットワークのようになっているということだ。

懐メロを聞いて、曲だけでなく、
住んでた部屋や、会った人や、出来事などを思い出すのも、
プルースト効果である。

ある五感から別の五感を思い出すわけだから、
記憶とは、いろんな感覚にしみわたって記憶されているということになる。
逆にいうと、
体験とは視覚だけでない。嗅覚でも体験して、聴覚でも触覚でも、
味覚でも、いろんな感覚で同時に体験している。

当たり前だといえば当たり前だが、
それは、関連づけられたネットワークとして、
人間の脳内に格納されている。
だから一つを刺激すると他が出てくる。
人間の脳はそういう構造だということだ。


ところでデジタルは、なぜか記憶に残りにくい。
おもに視覚で、聴覚が弱く、
あとは指の触覚くらいしかないからだろう。

空間を移動したり、痛みや恐怖があったり、
大きな喜びもないからだろう。

線やネットワークの記憶に対して、点の記憶だ。
だからプルースト効果が働かず、
忘却も早いのだろう。

デジタルで勉強したことは、なぜか身に付きにくい、
という経験則は、これだと僕は思っている。


映画の記憶でいうと、
ある作品と、見た映画館は、密接な記憶があると思う。
椅子のすえたニオイや、ロビーの光景や、
トイレの記憶や、エレベーターの記憶や、駅や町の記憶まで、
ワンセットで記憶されているように思う。

テレビで見た映画ですら、
実家のリビングや、僕がよく座る席や、
冬の冷たい床や、
そのとき描いてた漫画(僕は金曜ロードショーのときは、
漫画を描きながら見る癖があった。
最初つまらないなら漫画がすすむし、
面白ければそっちを夢中に見れるので、どっちかが得なのだ)
の、ファイルの手触りすら思い出せる。

小説でも同様で、紙の質とか、表紙の感じとか、
読んだ場所のこととか、
そうしたことと紐づいて、記憶がなされていると思う。


これがネトフリとかキンドルになると、
五感のひもづきが減って、
記憶の定着が甘くなるのではないか?

僕は映画館派だし、紙派なのは、
「全体の体験」としてそれらを考えているわけだが、
体験ではないとすると、
「消費」になるのではと思った。

つまり、
デジタルの点の経験は、
体験という身になるものではなく、
ただの消費で、忘れてしまうものになっている。

演劇だって、小屋の感じとか、駅からの道とか、
夕暮れの雰囲気とか、チラシの感じとか、
そういうことで記憶しているというものだ。
それがネット中継になっても、
全然面白くないというものだ。(コロナで今はしょうがないけど)


デジタルは人を幸せにしない。
「所詮、体験の代替品」どころか、
消費しつくしてどこかに追いやってしまう。

永久保存というデジタルの性質と、真逆なことが、起こっていると思う。
素晴らしい体験を手軽に永久保存することは、
それらを消費に矮小化して、すぐに消せるものにすることであると。

デジタルにどこかつきまとう虚しさ、儚さは、
消費でおしまいという一過性ではないか?


デジタルの犯罪は足がつかない。
1か0かの世界は、0がある。1でなければ0だ。
アナログだと、一回1になれば、0.0001でも、「ある」というのに。

認知症になって記憶が失われても、
プルースト効果によって記憶が戻ってくることすらある。
デジタルにはプルースト効果はない。
0は0だ。

ビットコインの犯罪者も、ドコモ口座の犯罪者も、
0で闇に消えた。

私たちが見たデジタル体験も、0になったのかもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 07:43| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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