プルースト効果という心理学の効果がある。
というか、実際は記憶のことだから認知学かもしれない。
ある匂いを嗅ぐと、それと関連する、
風景や音や手触りを思い出すという効果だ。
それと同じことを描いたプルースト「失われた時を求めて」から命名されたらしい。
つまり、記憶というのは、
単独の感覚ではなく、
五感と結びついてネットワークのようになっているということだ。
懐メロを聞いて、曲だけでなく、
住んでた部屋や、会った人や、出来事などを思い出すのも、
プルースト効果である。
ある五感から別の五感を思い出すわけだから、
記憶とは、いろんな感覚にしみわたって記憶されているということになる。
逆にいうと、
体験とは視覚だけでない。嗅覚でも体験して、聴覚でも触覚でも、
味覚でも、いろんな感覚で同時に体験している。
当たり前だといえば当たり前だが、
それは、関連づけられたネットワークとして、
人間の脳内に格納されている。
だから一つを刺激すると他が出てくる。
人間の脳はそういう構造だということだ。
ところでデジタルは、なぜか記憶に残りにくい。
おもに視覚で、聴覚が弱く、
あとは指の触覚くらいしかないからだろう。
空間を移動したり、痛みや恐怖があったり、
大きな喜びもないからだろう。
線やネットワークの記憶に対して、点の記憶だ。
だからプルースト効果が働かず、
忘却も早いのだろう。
デジタルで勉強したことは、なぜか身に付きにくい、
という経験則は、これだと僕は思っている。
映画の記憶でいうと、
ある作品と、見た映画館は、密接な記憶があると思う。
椅子のすえたニオイや、ロビーの光景や、
トイレの記憶や、エレベーターの記憶や、駅や町の記憶まで、
ワンセットで記憶されているように思う。
テレビで見た映画ですら、
実家のリビングや、僕がよく座る席や、
冬の冷たい床や、
そのとき描いてた漫画(僕は金曜ロードショーのときは、
漫画を描きながら見る癖があった。
最初つまらないなら漫画がすすむし、
面白ければそっちを夢中に見れるので、どっちかが得なのだ)
の、ファイルの手触りすら思い出せる。
小説でも同様で、紙の質とか、表紙の感じとか、
読んだ場所のこととか、
そうしたことと紐づいて、記憶がなされていると思う。
これがネトフリとかキンドルになると、
五感のひもづきが減って、
記憶の定着が甘くなるのではないか?
僕は映画館派だし、紙派なのは、
「全体の体験」としてそれらを考えているわけだが、
体験ではないとすると、
「消費」になるのではと思った。
つまり、
デジタルの点の経験は、
体験という身になるものではなく、
ただの消費で、忘れてしまうものになっている。
演劇だって、小屋の感じとか、駅からの道とか、
夕暮れの雰囲気とか、チラシの感じとか、
そういうことで記憶しているというものだ。
それがネット中継になっても、
全然面白くないというものだ。(コロナで今はしょうがないけど)
デジタルは人を幸せにしない。
「所詮、体験の代替品」どころか、
消費しつくしてどこかに追いやってしまう。
永久保存というデジタルの性質と、真逆なことが、起こっていると思う。
素晴らしい体験を手軽に永久保存することは、
それらを消費に矮小化して、すぐに消せるものにすることであると。
デジタルにどこかつきまとう虚しさ、儚さは、
消費でおしまいという一過性ではないか?
デジタルの犯罪は足がつかない。
1か0かの世界は、0がある。1でなければ0だ。
アナログだと、一回1になれば、0.0001でも、「ある」というのに。
認知症になって記憶が失われても、
プルースト効果によって記憶が戻ってくることすらある。
デジタルにはプルースト効果はない。
0は0だ。
ビットコインの犯罪者も、ドコモ口座の犯罪者も、
0で闇に消えた。
私たちが見たデジタル体験も、0になったのかもしれない。
2020年09月10日
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