リライトを繰り返していると、新鮮さがなくなっていく現象がある。
これを覆そう。
リライトをすればするほど、
「より正確に書こう」などと思うことが稀によくある。
「誤解を受けないように書こう」のほうが正解かもしれない。
あるものを書いた時、
もう一方も書いておかないと不平等であるとか、
より正確に説明しておこうとか、
正式にはこうは言わないので正式なものにするとか。
これを僕は、「石に刻む恐怖」と呼んでいる。
石に刻んで永久保存するからには、
正確を期する必要があり、
素晴らしいものだけを残さなくてはならない、
みたいな強迫観念だ。
もし石に刻まれている言葉が、
不正確だったり不平等だったり、
不安定であったりすると良くないから、
正式にきちんと書こうとしよう、
のような強迫観念だ。
証明写真や履歴書に似ている。
髪型を整え、髭を剃り、
正面をきちんとみて、背筋を伸ばして、
あるいは、手書きで楷書で丁寧に、
正確な情報を。
これがもたらすのは、緊張という弊害である。
ストーリーは文書記録ではない。
エンターテイメントは緊張ではない。
人の行動や感情は、もともと誤解を含む。
石に刻まれて永久保存だから、と恐怖にまみれ、
表現の勢いが減ることが、
もっとも詰まらないことだと僕は思う。
書道でものすごい勢いが書けたが、
漢字が間違っていたとしよう。
正確な漢字で、同じ勢いで書き直せるか?
僕は出来ないと思う。
じゃあ、
正確に書き直したがびびって勢いが減った版と、
間違ってるけどはみ出しかねない勢いのある版では、
どちらが芸術か?という話だ。
僕は、勢いを取ったほうが「おもしろい」と思う。
もちろん、勢いがあって正確な漢字なのがベストだけど、
なかなかそうはならないことは、
リライトをした経験があれば分かると思う。
だから、
リライトとは、
「勢いを削いでまで直す」べきではないと考える。
間違いや言い直しを指摘されて、
その通りに直すと、
ほぼ100%勢いが消失する。
だからリライトで弄りまくったらどんどん悪化していって、
最初のやつがよかったね、
あるいは、直したはじめのあたりで妥協するか、
となることが多いと思う。
結果、正確かもしれないが、
面白くないバージョンに落ち着いている可能性が高いのだ。
石に刻み、永久保存し、
人類の宝となるのはなんだろう?
極めて正確で、平等で、各方面を傷つけないものか?
僕は違うと思う。
原始的な衝動の勢いの、素晴らしいものだと思う。
もちろん、洗練と野性が融合したものがベストだけど、
人の心を動かすのは洗練ではない。
だからといって、間違ったものや不平等なものがはびこるべき、
ということではない。
石に刻む恐怖を感じた時、
自分は萎縮していると自覚するべきなのだ。
テイク2がテイク1より良くなければ、
リテイクの意味などない。
リテイクが「悪くなくなったが、よくもなくなった」
とならないように、
リテイクは気合と集中であたるべきだ。
2020年09月15日
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