2020年09月15日

石に刻むべきは、もっとも闊達な言葉であるべきだ

リライトを繰り返していると、新鮮さがなくなっていく現象がある。
これを覆そう。


リライトをすればするほど、
「より正確に書こう」などと思うことが稀によくある。

「誤解を受けないように書こう」のほうが正解かもしれない。

あるものを書いた時、
もう一方も書いておかないと不平等であるとか、
より正確に説明しておこうとか、
正式にはこうは言わないので正式なものにするとか。

これを僕は、「石に刻む恐怖」と呼んでいる。

石に刻んで永久保存するからには、
正確を期する必要があり、
素晴らしいものだけを残さなくてはならない、
みたいな強迫観念だ。

もし石に刻まれている言葉が、
不正確だったり不平等だったり、
不安定であったりすると良くないから、
正式にきちんと書こうとしよう、
のような強迫観念だ。

証明写真や履歴書に似ている。
髪型を整え、髭を剃り、
正面をきちんとみて、背筋を伸ばして、
あるいは、手書きで楷書で丁寧に、
正確な情報を。

これがもたらすのは、緊張という弊害である。


ストーリーは文書記録ではない。
エンターテイメントは緊張ではない。
人の行動や感情は、もともと誤解を含む。

石に刻まれて永久保存だから、と恐怖にまみれ、
表現の勢いが減ることが、
もっとも詰まらないことだと僕は思う。


書道でものすごい勢いが書けたが、
漢字が間違っていたとしよう。

正確な漢字で、同じ勢いで書き直せるか?
僕は出来ないと思う。

じゃあ、
正確に書き直したがびびって勢いが減った版と、
間違ってるけどはみ出しかねない勢いのある版では、
どちらが芸術か?という話だ。

僕は、勢いを取ったほうが「おもしろい」と思う。


もちろん、勢いがあって正確な漢字なのがベストだけど、
なかなかそうはならないことは、
リライトをした経験があれば分かると思う。

だから、
リライトとは、
「勢いを削いでまで直す」べきではないと考える。

間違いや言い直しを指摘されて、
その通りに直すと、
ほぼ100%勢いが消失する。

だからリライトで弄りまくったらどんどん悪化していって、
最初のやつがよかったね、
あるいは、直したはじめのあたりで妥協するか、
となることが多いと思う。

結果、正確かもしれないが、
面白くないバージョンに落ち着いている可能性が高いのだ。


石に刻み、永久保存し、
人類の宝となるのはなんだろう?
極めて正確で、平等で、各方面を傷つけないものか?

僕は違うと思う。
原始的な衝動の勢いの、素晴らしいものだと思う。

もちろん、洗練と野性が融合したものがベストだけど、
人の心を動かすのは洗練ではない。


だからといって、間違ったものや不平等なものがはびこるべき、
ということではない。

石に刻む恐怖を感じた時、
自分は萎縮していると自覚するべきなのだ。

テイク2がテイク1より良くなければ、
リテイクの意味などない。

リテイクが「悪くなくなったが、よくもなくなった」
とならないように、
リテイクは気合と集中であたるべきだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:26| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。