2020年09月13日

この消化不良感の正体はなにか(漫画「るろうに剣心」評)

幕末から明治のことを次の新作のために調べていて、
そういえばるろうにも明治だったと思い出し、
鋼鉄軍艦煉獄が沈んだあたりで、リアルタイムで脱落していた、
原作漫画版を読んでみた。

リアルタイムで読んでいた時から思っていたのだが、
るろうには全編消化不良感が漂っていると思う。
そのことについて少し考えたい。


ずっと気になっていたのは、
剣術への理解の浅さだ。

サムスピと同程度のリアリティしかなく、
刃物で切っている感じが全然しない。
エフェクト合戦にしかなっていなくて、
「なぜこの技が強力なのか」
「どうやってこの技を防ぐのか」
のリアリティがあまりにも希薄だ。

鬼滅のときにも同じことを思ったが、
鬼滅の場合は呼吸という魔法なのでそこまで気にならなかった。
るろうには、荒唐無稽な漫画とはいえ、一応剣術の範囲内のはずだ。
ブーメランフックはコークスクリューになっているから強いとか、
デンプシーロールはタイミングさえ読めればカウンターを全弾狙えるとか、
その程度の「その世界内でのリアリティ」が欲しかった。

なぜなら、
テーマが「不殺」だからである。

人に斬り付けて殺す技の応酬の中で、
どのようにして不殺とするのかの、
リアリティが足りなかったと思う。

撫で斬りは全て殴るになるのはわかる。
しかし九頭竜閃はオール突き技なので、
切先刺さって死ぬやんけ、とツッコミしかない。

「通常ならばこのようにして人を殺す技なのだが、
剣心は工夫してこのように人を殺さないように、
戦闘不能にする技へ変えたのだ」
というのが、
少年漫画的に見どころになるはずなのに!

たとえば逆刃刀の切先は不殺のために丸くなっているはずだ。
ビジュアル的にカッコ悪いけど。

作者に剣の知識がなさすぎて、サムスピをベースにしたことが、
リアリティの不足になっていると思う。


まあこの辺はガワの話だ。
だけど中身も実は同じ方面からの批判になる。
すごくゲームっぽいんだよね。

正確にいうと、
格ゲーのノベライズ版みたいな、ドラマの薄っぺらさがあるんだよな。

どういうことかというと、
「出落ち」だ。

格ゲーにおいては、
「この戦いの場に来た理由」まで設定としてあり、
その後の戦いはゲームでやる。
だからドラマ的な設定は、
出落ちの設定までである。

るろうにも、そんな感じがした。

つまり、
設定=過去が充実していて、
現在よりも魅力的だった。
すなわち、現在のドラマが弱いと思った。

バトル内容のリアリティが希薄、
ドラマが過去しか濃くない、
両方において薄かった。

これが消化不良感の原因だ。

(ちなみに、バトルにリアリティ全振りで、
ドラマがちっとも面白くない、
「オールラウンダー廻」という総合格闘技漫画がある。
僕は大好きなので興味深く読んだが、
普通の人が理解できるとは思えない)


剣心は過去から逃げている。

過去の人斬り時代のほうがドラマが濃い。
その時の亡霊志々雄真実や雪代巴の話や十字の傷の話の方が濃い。

現在の人間ドラマが薄い。
剣心-薫のドラマが薄い。
剣心-斎藤一の現在のドラマが薄い。
(少なくとも決闘はすっぽかすべきではなかった)
蒼紫-剣心のドラマも薄目だ。
弥彦には比較的ドラマが集中するが、あくまでおまけレベルで、
メインキャストではないだろう。
恵さんのドラマも中途半端だった。
(たとえばあれだけ左之助が通っているのなら、
そっちの恋愛ドラマだって作れたはず)

設定だけは豪勢なのに、
なぜかそこから一歩も進まないのが、
るろうにの現在のドラマパートのような気がした。
キャラが出揃って、ファミリーになるだけがストーリーのような感じ。

剣心は過去から逃げている。
だから、過去からの因縁がなくなったら、
物語は終わってしまったのだ。
過去の燃料を使い果たしたら、それで終わりに過ぎなかったのだ。

過去が強く現在が弱かったから、
過去を凌駕する現在が次へ進むのではなく、
過去を消化したらおしまいになってしまった。

それが消化不良の原因だ。


しかし過去=設定だけは面白いから、
何度もバージョンがつくられる。

作者はアメコミ好きらしいが、
なるほどアメコミに考え方が近い。
キネマ版(キャラが同じのパラレル版。
アメコミで別作者が別エピソードを書くときによく使う。
たとえばサムライミ版スパイダーマンと、
アメイジング版のような関係)
は、まさにアメコミの考え方だと思った。

作者はエンドゲームを見ただろうか。
アメコミを超える、ハリウッドシナリオの真髄を見たら、
設定だけは立派で、
微妙なシナリオを乱立させることよりも、
きちんと物語を満足いくように解決することを、
選ぶはずなのに。


単純に、志々雄のキャラが立ち過ぎて、
その後の縁がそれ以下に見えたのが消化不良感がある。
志々雄との決着が、不殺による決着でなく、
自滅であることも消化不良感がある。

「剣心が不殺を貫いて宿敵に勝つ」が、
毎回きちんと行われていたとは言い難い。
天翔龍閃も、抜刀で殴るだけだしね。
腰ダメから棒で殴るのと同じで、どこが奥義やねんって感じ。
最速抜刀より最速斬撃のほうが速いやろ。

本来の殺人奥義を、剣心なりに、
不殺の技に変えて使い、
その結果殺さずに敵を捕縛した、改心させた、
が、本来必要だったドラマのように思う。

それが志々雄自滅、縁との対決もようわからん、
って感じになり、
「不殺は正しいのだ!」と僕らが思えなかったことが、
るろうにの消化不良感のいちばんの原因だと思う。


実写版は非常に退屈な、よくできているキャラ祭りだったが、
漫画版の骨格を上手に整理してあったんだなあと、
漫画版を読んで思った。

でも結局双方とも、
テーマであるところの「不殺が良いのである」と、
心から思えなかったのが詰まらないところだ。



そもそも、悪人をぶった斬る快感こそが、
サムライものの面白さだ。
その逆を狙ったのだから、
「なるほど人をぶった斬らずにこうすることが、
新時代の解決法なのか!」
というのを、いくつかパターンがあればよかったのに。

それが、悪を斬り殺すより価値があるような、
ドラマを組むべきだったろう。

(例: 悪の親玉も人の子で、今お前を殺したら、
その子は孤児になるから不殺とした、
ただし二度と剣を握れぬようツボをついておいた、とか、
左小指を落として、太刀は握れないようにした、とか)


志々雄を殺さずに決着をつけて、
志々雄を斬り殺すより価値のある結末にするべきだった。

だって元花魁の、駒形由美の死が一番よかったもの。
「闘いの役に立ててよかった」って。
不殺をテーマにした作品で、死がいいなんて有り得ない。
生きることがいいんだってならなきゃダメでしょ。


どうすれば?それは僕もわからない。
しかし不殺をテーマにするならば、
そこに挑まずして何に挑むというのだ?


リアタイで読んでたときは、
スラムダンクも終わり、ドラゴンボールもブウ編あたりで、
詰まらない時期だった。
遊戯王が出てきて、漫画がゲームに侵食された感じがしていた。
そのへんで僕はジャンプから卒業したと思う。
るろうにはその端境期の作品だ。
やはり、ゲームっぽ過ぎて、ストーリーが地に足がついてないところが、
嫌いだったんだなあ。

今やっと一気読みできて、当時の感覚が言葉になった。
posted by おおおかとしひこ at 05:04| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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