幕末から明治のことを次の新作のために調べていて、
そういえばるろうにも明治だったと思い出し、
鋼鉄軍艦煉獄が沈んだあたりで、リアルタイムで脱落していた、
原作漫画版を読んでみた。
リアルタイムで読んでいた時から思っていたのだが、
るろうには全編消化不良感が漂っていると思う。
そのことについて少し考えたい。
ずっと気になっていたのは、
剣術への理解の浅さだ。
サムスピと同程度のリアリティしかなく、
刃物で切っている感じが全然しない。
エフェクト合戦にしかなっていなくて、
「なぜこの技が強力なのか」
「どうやってこの技を防ぐのか」
のリアリティがあまりにも希薄だ。
鬼滅のときにも同じことを思ったが、
鬼滅の場合は呼吸という魔法なのでそこまで気にならなかった。
るろうには、荒唐無稽な漫画とはいえ、一応剣術の範囲内のはずだ。
ブーメランフックはコークスクリューになっているから強いとか、
デンプシーロールはタイミングさえ読めればカウンターを全弾狙えるとか、
その程度の「その世界内でのリアリティ」が欲しかった。
なぜなら、
テーマが「不殺」だからである。
人に斬り付けて殺す技の応酬の中で、
どのようにして不殺とするのかの、
リアリティが足りなかったと思う。
撫で斬りは全て殴るになるのはわかる。
しかし九頭竜閃はオール突き技なので、
切先刺さって死ぬやんけ、とツッコミしかない。
「通常ならばこのようにして人を殺す技なのだが、
剣心は工夫してこのように人を殺さないように、
戦闘不能にする技へ変えたのだ」
というのが、
少年漫画的に見どころになるはずなのに!
たとえば逆刃刀の切先は不殺のために丸くなっているはずだ。
ビジュアル的にカッコ悪いけど。
作者に剣の知識がなさすぎて、サムスピをベースにしたことが、
リアリティの不足になっていると思う。
まあこの辺はガワの話だ。
だけど中身も実は同じ方面からの批判になる。
すごくゲームっぽいんだよね。
正確にいうと、
格ゲーのノベライズ版みたいな、ドラマの薄っぺらさがあるんだよな。
どういうことかというと、
「出落ち」だ。
格ゲーにおいては、
「この戦いの場に来た理由」まで設定としてあり、
その後の戦いはゲームでやる。
だからドラマ的な設定は、
出落ちの設定までである。
るろうにも、そんな感じがした。
つまり、
設定=過去が充実していて、
現在よりも魅力的だった。
すなわち、現在のドラマが弱いと思った。
バトル内容のリアリティが希薄、
ドラマが過去しか濃くない、
両方において薄かった。
これが消化不良感の原因だ。
(ちなみに、バトルにリアリティ全振りで、
ドラマがちっとも面白くない、
「オールラウンダー廻」という総合格闘技漫画がある。
僕は大好きなので興味深く読んだが、
普通の人が理解できるとは思えない)
剣心は過去から逃げている。
過去の人斬り時代のほうがドラマが濃い。
その時の亡霊志々雄真実や雪代巴の話や十字の傷の話の方が濃い。
現在の人間ドラマが薄い。
剣心-薫のドラマが薄い。
剣心-斎藤一の現在のドラマが薄い。
(少なくとも決闘はすっぽかすべきではなかった)
蒼紫-剣心のドラマも薄目だ。
弥彦には比較的ドラマが集中するが、あくまでおまけレベルで、
メインキャストではないだろう。
恵さんのドラマも中途半端だった。
(たとえばあれだけ左之助が通っているのなら、
そっちの恋愛ドラマだって作れたはず)
設定だけは豪勢なのに、
なぜかそこから一歩も進まないのが、
るろうにの現在のドラマパートのような気がした。
キャラが出揃って、ファミリーになるだけがストーリーのような感じ。
剣心は過去から逃げている。
だから、過去からの因縁がなくなったら、
物語は終わってしまったのだ。
過去の燃料を使い果たしたら、それで終わりに過ぎなかったのだ。
過去が強く現在が弱かったから、
過去を凌駕する現在が次へ進むのではなく、
過去を消化したらおしまいになってしまった。
それが消化不良の原因だ。
しかし過去=設定だけは面白いから、
何度もバージョンがつくられる。
作者はアメコミ好きらしいが、
なるほどアメコミに考え方が近い。
キネマ版(キャラが同じのパラレル版。
アメコミで別作者が別エピソードを書くときによく使う。
たとえばサムライミ版スパイダーマンと、
アメイジング版のような関係)
は、まさにアメコミの考え方だと思った。
作者はエンドゲームを見ただろうか。
アメコミを超える、ハリウッドシナリオの真髄を見たら、
設定だけは立派で、
微妙なシナリオを乱立させることよりも、
きちんと物語を満足いくように解決することを、
選ぶはずなのに。
単純に、志々雄のキャラが立ち過ぎて、
その後の縁がそれ以下に見えたのが消化不良感がある。
志々雄との決着が、不殺による決着でなく、
自滅であることも消化不良感がある。
「剣心が不殺を貫いて宿敵に勝つ」が、
毎回きちんと行われていたとは言い難い。
天翔龍閃も、抜刀で殴るだけだしね。
腰ダメから棒で殴るのと同じで、どこが奥義やねんって感じ。
最速抜刀より最速斬撃のほうが速いやろ。
本来の殺人奥義を、剣心なりに、
不殺の技に変えて使い、
その結果殺さずに敵を捕縛した、改心させた、
が、本来必要だったドラマのように思う。
それが志々雄自滅、縁との対決もようわからん、
って感じになり、
「不殺は正しいのだ!」と僕らが思えなかったことが、
るろうにの消化不良感のいちばんの原因だと思う。
実写版は非常に退屈な、よくできているキャラ祭りだったが、
漫画版の骨格を上手に整理してあったんだなあと、
漫画版を読んで思った。
でも結局双方とも、
テーマであるところの「不殺が良いのである」と、
心から思えなかったのが詰まらないところだ。
そもそも、悪人をぶった斬る快感こそが、
サムライものの面白さだ。
その逆を狙ったのだから、
「なるほど人をぶった斬らずにこうすることが、
新時代の解決法なのか!」
というのを、いくつかパターンがあればよかったのに。
それが、悪を斬り殺すより価値があるような、
ドラマを組むべきだったろう。
(例: 悪の親玉も人の子で、今お前を殺したら、
その子は孤児になるから不殺とした、
ただし二度と剣を握れぬようツボをついておいた、とか、
左小指を落として、太刀は握れないようにした、とか)
志々雄を殺さずに決着をつけて、
志々雄を斬り殺すより価値のある結末にするべきだった。
だって元花魁の、駒形由美の死が一番よかったもの。
「闘いの役に立ててよかった」って。
不殺をテーマにした作品で、死がいいなんて有り得ない。
生きることがいいんだってならなきゃダメでしょ。
どうすれば?それは僕もわからない。
しかし不殺をテーマにするならば、
そこに挑まずして何に挑むというのだ?
リアタイで読んでたときは、
スラムダンクも終わり、ドラゴンボールもブウ編あたりで、
詰まらない時期だった。
遊戯王が出てきて、漫画がゲームに侵食された感じがしていた。
そのへんで僕はジャンプから卒業したと思う。
るろうにはその端境期の作品だ。
やはり、ゲームっぽ過ぎて、ストーリーが地に足がついてないところが、
嫌いだったんだなあ。
今やっと一気読みできて、当時の感覚が言葉になった。
2020年09月13日
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