2020年09月13日

たかがそのストーリーに、その過度の設定はいらない

のように考えることもできる。


「るろうに剣心」の原作を一気読みして思ったことは、
その現在のストーリーには、
不要なほど設定が多かった(深かった)ことだ。

設定の多彩さや深さに対して、
現在のストーリーが多彩でも深くもないので、
思った以上に楽しめなかったのだ。

すなわち、設定だおれ(出落ち)ということだ。

これのさらに極端なのがファイブスター物語で、
あの程度の現在のストーリーであるならば、
設定は1万分の1に削れるというものだ。


まあ、連載物の大長編だから、
どれだけ最初に燃料を積んでおけばいいのか、
わからない部分もあるから、
大目に設定を組む、という方法論はあるだろう。

以下では映画前提の話をする。

大目に設定を組んでおく、なんてあり得ない。
使わない設定など捨てなさい。

そしてもし、過去話のほうが現在話より魅力的ならば、
過去話を本編にしなさい。
現在のストーリーは不要だとすら言える。
(なんなら、失敗した続編のようですらある)

もしその過去話に、それより大過去の設定が必要ならば、
それを語るだけの量にしなさい。

それ以上の設定はいらない。


続編はない。
これきりで勝負。

だとすると、
設定の披露に時間をかけて、
何も使わないのならば、
現在が無駄である。

高々120枚しか書けないのだ。

最低限の設定で、現在を面白く書こう。


面白そうな過去は魅力的だ。
過去が人物を作る。
しかしその造形された人物が、
これからどんな行動や判断や覚悟をして、
どう変化していくかが、物語である。

物語は、過去形ではなく現在形をしている。

シナリオのト書きが現在形で書かれることは、
そういう意味があると僕は思う。


現在とは、これまでやって来た過去と、
これからこうなる、これからこうしようという未来も含む。
三層重ねて面白い。
過去だけが分厚いのは、バランスが悪い。
posted by おおおかとしひこ at 22:41| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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