人は、嘘だとわかっているフィクションにだって、
真実味を求めたりする。
映画は俳優とカメラとスタッフが集まって、
ヨーイスタートから始まっていることも知っている。
だからか、よくこういう、
「真実」が売り文句になったりする。
・○○賞の俳優たちの、本気演技合戦!
・役作りに○ヶ月かけた、本格○○役!
・カメラが入れなかったところに、ついにカメラが!
・現実でも付き合ってる美男美女の、演技とは思えぬラブシーン!
・合成CGスタント一切なしの、ノートリック映像をしかと見よ!
・○○賞をもらっているダンスチームの本気のダンス!
・芸人ならではの漫才シーンはガチだ!
・実はこのタップダンス、○○さんの特技なんです…!
・この演奏シーン、マジで弾いてます!
・あの事件の真相はこうだった!新たな資料とともにあの事件の謎に挑む!
なんなんだろね。
僕はこんなのを見るたびに白けてしまう。
そんなに本物が見たいなら、隠し芸大会でも見たほうがいいよね。
勿論、
映画は嘘と真実をごちゃ混ぜにしたフェイクであるわけだから、
ごちゃ混ぜ成分を売りにしたくもなるだろう。
じゃあ、肝心の中身であるところの、
脚本の真実味を、どうして売りにしないんだろう?
コロナ禍を吹っ飛ばす、新しい生活様式!
戦争を止める、たったひとつの方法!
とかが脚本の売りにならないのは、なぜだろう?
みんな、フィクションに「現実の解決方法」を求めていないからだ。
脚本に求められる真実味とは、もっと別のところにある。
それは、
「こことは違う世界だけど、
本当にある世界」だと錯覚させる何かのことだ。
これが上手ならばアニメでも本物に見えるし、
これが下手なら、実写でも記号だけのクソアニメに見える。
「まるで本物のような絵」は関係がない。
その世界にいる人の生き方や、
決断や、生活感などが、本当らしく見えることをいう。
ああ、この世界は、
今いる僕らのこの世界ではないのだが、
宇宙のどこかに、あるいは世界のどこかに、
あるいは歴史のどこかに本当にあって、
そこで本当に生きた人たちの、
生きたドラマなのだ、
と思える何かである。
僕は、それこそを宣伝するべきだと思う。
たとえばドラマ風魔の小次郎は、
荒唐無稽で予算は安いけれど、
「忍びと人の間でアイデンティティーに悩み、
自分なりの答えを、経験を積極的に求めて模索したこと」
は真実だ。
だから小次郎の成長物語は胸を打つのである。
もちろんこれは脚本家としての言葉だから、
もっと惹句にまとめるべきだ。
そしてそれは、本当にはキャッチコピーにまで高められるべきだ。
「俺は、これが答えだと思う。」
とかはいま思いついたキャッチコピーだけど、
原作漫画からは想像もしなかった真実味こそが、
ドラマ版の魅力であることは間違い無いからね。
で。
そもそもそんなものがないから、
そんな宣伝しかできないのか?
そんな宣伝ばかりしてたから、読解力や表現力が落ちたのか?
は、卵と鶏だけど、
少なくとも、
作者はそれを客観的に提示できるべきだと思う。
それは、対観客というよりかは、
対プロデューサーや、ビジネスとしてそれを進める上で、
という意味である。
通常、脚本家がそこまで客観的に自分の作品を捉えていることは稀だ。
言葉に限定してしまうと意味を狭めてしまうと恐れがちだし、
第一なんかもっとふわっとしたものでしか捉えられない。
(本当はプロデューサーが、こうですかと的確に言葉にする役割だが、
実力のある人しかこれは出来ないので、
出来ない前提で動いたほうがよい)
だけど、間違ってもいいから、
その真実味を語るべきだと僕は思っている。
その具体が作中にある必要はない。
具体的には作中にはないが、確かにこれがあった、
ということは、「あった」ことである。
その「ほんとう」こそが、
脚本の大事なところだと思う。
それは、テーマとかプロットとはまた違った、
「独特のリアリティ」のようなものだ。
「独特のリアリティ」はわかったから、
じゃああとは言葉で表現してみろや、
ということなのだが。
そうしたものがないから、
「○○賞受賞!」
「○○万部の大ヒット原作!」
「圧巻の(驚愕の)ラスト10分!」
の3通りしか、脚本の惹句がないのである。
おかしいよね。
内容の惹句が3通りしかないなんて。
なにが真実だろう。
どこでこれはほんとうだと思うのだろう。
そこが、最も大事なところかもしれないぞ。
2020年09月19日
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