2020年09月18日

ストーリーには何が必要か

前記事の続き。
「夏、至るころ」の例で、もう少し議論を続けよう。


僕は断片的な情報から、
プレスリリースのあらすじはこうであるべきと書いた。

 和太鼓の一人前を目指すため、二人の男は競い合っていた。
 だがある日、一人が太鼓を辞めるという。
 情熱の行き場を失った主人公は、ギターを背負った謎の少女と出会う。
 彼女とコラボすることで、今年の夏祭りを新しく、
 しかも親友の情熱を呼び戻せるものに出来るのではないか?
 和太鼓とギター。最も珍妙な組み合わせで、最も熱い、田川町の夏が始まる。

実際のホンは知らないのであくまで想像だ。

脚本論に詳しい人ならば、
これは第一幕のセンタークエスチョンの提示までを圧縮していることが、
分かるかと思う。

全あらすじはネタバレになり興を削ぐので、
第一幕をあらすじ化して、
その結実であるクライマックスを予感させるのが、
僕はもっとも的確な予告のあり方だと考える。
(脚本がそのように上手に書けていればの話だけど)


さて、
ということは、これは、
全中身の1/4でしかなく、
残り3/4を考えなければならないわけだ。


いや、待て。
実際の脚本には、この第一幕に必要な、
もう一つの重要な柱が抜けている。

感情移入である。


実のところ、
私たちはこいつが和太鼓で一人前になろうが、
親友がやめてしまおうが、どうでもいい。
知らない人のどうでもいい話は、基本どうでもいい。

これが、
「本当にこの男が和太鼓で一人前になるといい」
「親友が辞めたことを、自分のことのように悲しむ」
のように観客の心が動くことが必要である。

そうでなければ、これ以降の目的、
「親友を再び奮起させるために、
新しいユニットを組む」
に、
我々観客は感情的に乗れないからだ。


そしてそのためには、
心に染みるエピソードが重要だ。

たとえば、
「子供の頃二人で和太鼓を見て感動し、
一緒にあそこへ行こうぜと約束した」では弱い。
それはすでに見たことがあるからだ。

「俺、和太鼓やめるよ」「なんでだよ!」「受験の方が大事だろ」
では弱い。
どこかで見たことのある、通り一遍の陳腐脚本だからだ。
これでは感情移入にならない。


たとえばこんなものを考えてみた。

「子供の頃二人で祭りの前日に神社に忍び込んで、
和太鼓を勝手に叩いた。
いつもは布がかぶせて勝手に叩かないようになってるが、
祭りの前で布は取られていたのだ。
しかし子供だからどうやって叩いたらいいか分からず、
一本ずつバチを持って、子供の弱い力で交互に叩いた。
それはそれで楽しかったのだが、
音でばれて大人に怒られた。
しかしその大人は、『こうやってやるんだよ』と、
目の前で本物の和太鼓を見せてくれた。
ものすごい大きな音で、しかも二人で叩くより速い。
感動したら女将さんにバレて三人で怒られる羽目になってしまった。

あとで知ったのだが、そのオッサンこそ、
今の和太鼓長の神谷さんである。
僕らは小学校に上がって、神谷さんに太鼓を習うことに決めた」

とかなら、感情移入に値する、
オリジナルエピソードになるだろう。


感情移入は通り一遍のエピソードでなく、
必ずオリジナルであるべきだ。
なぜなら、それこそが雪だるまの芯の第一点だからだ。

そのあと巻き込まれる雪は多少通り一遍でも、
核こそはオリジナルになるべきである。

こうすると、
「いつか祭りのあそこで叩きたい。
それで、夜中に忍び込んだ子供と一緒に叩くのさ」
と主人公が言えば、
その思いに感情移入できるようになるだろう。

あるいは、
「太鼓はすごい。山の上で叩いても下で聞こえる」
みたいなエピソードを、
高校の夏祭り、彼女とのデートで山の下で聞くようにすれば、
いかに彼が和太鼓が好きかが伝わるかもしれない。


このようにして、
具体的なエピソードで感情移入するための、
仕掛けが必要だ。

このことによって私たちは、
主人公と同じくらい和太鼓を好きになり、
愛し、一人前になってほしいと思うようになる。

なのに、親友は辞めるというから、ショックなのだ。

で、それを挽回する目的に、
私たちは感情移入するようになるわけだ。


おっとここでまだ1/4だね。
残り3/4には何が必要?
続きます。
posted by おおおかとしひこ at 09:23| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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